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「島楓果処女歌集『すべてのものは優しさをもつ』(ナナロク社・2022年)」を捲る(其のⅠ)

〇   相槌をうつタイミングがわからなくなってなんにも聞こえなくなる

 「相槌をうつタイミングがわからなくなって」しまうこと自体は人間ならば誰でも体験することではあるが、そうした時に「なんにも聞こえなくなる」ことは、万人が万人、経験することではありません。もしも作者自身がそうした状態に陥ることが多い人間であるとするならば、作者は俗に云う「固まり型人間」なんでしょう。
     今こそは相槌を打つタイミング!遅れちやならぬと教師全員!   二嶋 結


〇   行き先があるふりをして歩くとき足はわたしを置き去りにする

 「行き先があるふり」に限らず、私たち人間が「何かのふり」をする時は、自らの心が自らの体の動きについて行かないから、「(わたしの)足はわたしを置き去りにする」のであり、それは必ずしも珍しいことではありません。
     行き先か逝き先なのかは知らねども八十路山坂攀じ行く吾ぞ   二嶋 結


〇   いつか死ぬ二人が死ねば消えてゆく思いをぶつけ合い生きている

 要するに、「死とは何か?」という問題なのである。
 憎しみ合ったり愛し合ったりしている二人の人間が死んでしまえば、件の二人の間で生前に交わされた愛情や憎悪の心まで消滅してしまうのでありましょうか?
 そんなむつかしいことは、私・鳥羽散歩には解りませんが、人間は、例え愛し合っていたとしても、憎しみ合っていたとしても「いつか死ぬ」ことが運命づけられている存在なのである。
 従って、斯く申す、私・鳥羽散歩は、「いつ死んでもいい」との覚悟だけはしているつもりである!
    孰れ行く道とは知れど逝くまではブログ更新ひたすら励む   二嶋 結


〇   今までは眠れば済んでいたことが済まなくなって眠れなくなる

 「今までは眠れば済んでいたことが済まなくなって眠れなくなる」ことは、本作の作者に限らず、人間ならばよく経験することである。
 しかし、一般的な思考力の備わった年限内を起こる現象であり、その年限を越えると、
ある程度の年齢に達すれば、という話であって、その年齢を越えれば、再び、「ひと眠りすれば済む」という状態になるのであり、そもそもの話をすれば、そうした年限を越えてしまった人間は悩むこと自体をしなくなるのである。
 だが、それは、人間として望ましい状態なのか、望ましくはないけれど、受け入れざるを得ない状態なのか?
     是までは「記憶にない」との答弁に誤魔化されたがそうはさせない!   二嶋 結


〇   渦巻きに火をつけたときから生の入れ物に注ぎ込まれてゆく死

 人間存在は「渦巻き」状態を成していると思っている作者!
 人間は生を享けると同時に「人間存在」と化すのであるから、そうした作者にとっては、「<誕生>すること自体が、<死>への坂道を驀進して行くこと」なのでありましょう。
 それにしても、「渦巻きに火をつける」という比喩表現の素晴らしさ!
 私はつい先日まで、就寝前に「金鳥の渦巻き型蚊取り線香」に百円ライターで「火」を付けることを生活習慣としていましたが、今は寒さ盛りの寒中なので、そうした生活習慣を一時停止している状態なのである。
     金鳥の蚊取り線香渦巻に着火するのが就眠儀式!   二嶋 結
     金鳥の蚊取り線香渦巻に着火してゐた昭和の頃よ
     金鳥の蚊取り線香渦巻に着火したりはてない令和
     金鳥の蚊取り線香渦巻に着火するのが蚊殺す秘訣


〇   思い出したくないことを思い出すたび焚べられてゆく薪
 こうした事も雪国育ちで薪ストーブを焚いて暖を採って私にはよく解ります。
     思ひ出したくはないけど思ひ出す!化石燃料価格沸騰!   二嶋 結
     思ひ出したくはないけど思ひ出す!原子力発電所再稼働


〇   帰りみち後部座席のばあちゃんはあしたのジョーのラストの姿勢

 帰路のバスの後部座席で「あしたのジョーのラストの姿勢」で居眠りしているとは、件の「ばあちゃん」は「何んと漫画チックなばあちゃんですこと!」
 でも、それが嵩じて、<降りますランプ>のボタンを押し忘れたりすると終点まで連れて行かれますから、「あしたのジョーのラストの姿勢」をとるのも程々にして下さいねェばあちゃん!
     定期では乗せてくれない深夜便!小田急・東急・川崎市営!   二嶋 結


〇   噛みちぎれなくて無理やり引っ張った干し芋が持ち帰った前歯

 言葉足らずを補えば、「(茨城名産の)干し芋を口に入れて歯で噛み千切ろうとしたら、件の干し芋はあまりにも固過ぎて噛み千切れなかったので食べるのを止そうとして口から引っ張り出したところ、あろうことか件の干し芋は、自らが噛み締め地獄から解放された序でとばかりに、私の口の中から私の大事な大事な前歯まで口の中から持ち帰ったのであるが、その憎たらしい干し芋よ!」と云ったことになりましょうか!
 お金をケチって賞味期限切れの干し芋なんかに手を出すから、こんな悲喜劇に見舞われたりするんですよ!ケチるのも程々にしなさいよ!
     部分入れ歯の隙間にも潜り込んでる「パールホワイト」の微細なる種!   二嶋 結


〇   紙パックたたんだことでたたまれた紙パックから礼を言われる

 たたんで網籠の中に入れたぐらいで「紙パック」が礼を言うかい!
 嘘を言うのも程々にしなさいよ!
     自分より見た目は若い婆さんに席譲られてお礼も言はぬ   二嶋 結


〇   空っぽのコップが倒れたテーブルにコップの中の空気は満ちる

 是もまた、作者一流の嘘偽り事なのである!
 「空っぽのコップ」の中にも、テーブル上にも「空気」は隙間なく満ちているのであり、「空っぽのコップが倒れた」瞬間に、その空気がテーブル上の空気と入れ替わったりすることは有り得ませんよ!
     空っぽのコップの中に花が咲く!忘年会での課長の手品!   二嶋 結


〇   蚊を潰したら付いた血は左手の生命線を伸ばしてくれた

 「蚊を潰したら(左手の掌に)付いた血」が、時間の経過に伴って乾燥して黒くなっている状態を見誤って、「左手の生命線を伸ばしてくれた」と作者が云ったのではなくて、「血は左手の生命線を伸ばしてくれた」としたのは作者一流の洒落た表現なのである。
     マル暴を潰したからとて一課長・内藤剛志の過去は犯人   二嶋 結


〇   境界に生きているからわたしにも隣人にも殺されないヨモギ

 自宅の敷地と隣家の敷地の「境界」に生き生きとして生えている「ヨモギ」!
 作者は、件のヨモギの生き生きとした有様を目にして、「境界に生きているからわたしにも隣人にも殺されないヨモギ」と云ったのであり、この一首もまた、作者一流の洒落た表現なのである!
     境界に置かれているから二嶋が手を出しあぐねてゐる<キリン一番搾り>   二嶋 結


〇   切られてる最中も木は刃を向ける人に日陰を与え続ける

 「最中」は「さいちゅう」と読むのであり、決して決して「最中」と読むのではありません!
     空気銃で狙われながらもウグイスは梅の小枝で歌つてゐた   二嶋 結
     
 
〇   くっきりと枕の跡がついていて今日は丹下左膳で生きる

 寝起きの顔に「くっきりと枕の跡がついて」いるから、「今日は丹下左膳で生きる」と開き直るのは、大河内傳次郎ファンの本作の作者である!
     ワイシャツに合体証拠着けたまま会社に急ぐ「釣りバカ日誌」   二嶋 結


〇   靴下をこたつに入れて温めるわたしはわたしの羽柴秀吉

 作中の固有名詞「羽柴秀吉」は、「木下藤吉郎」もしくは「日吉丸」もしくは「サル」の誤りである。
     東芝の「全自動式洗濯機・開閉タイプ」でサルマタ洗う   二嶋 結


〇   血圧計のボタン押すのを忘れてることを忘れて目を閉じている

 「目を閉じている」という五句目の七音がよく効いていて素晴らしい!
     パソコンの電源ボタンを押し忘れ富士通恨んだ二嶋結よ!   二嶋 結


〇   こっそりと鼻毛が出てると教えたら伸ばしていると強くいわれた

 これもよくある!
 私の郷里では、強情者を「這つても黒豆」と云うが、そんな「這っても黒豆」の私を見て、私の次男は「這ったら黒豆の間違いではないか?」などと、全く失礼千万なことを云うのである!
     「這っても」か「這ったら」なのか判らねど兎にも角にも吾は「黒豆」!   二嶋 結
     にんまりと笑つて猫を視てゐたら猫ににやんわり窘められた!
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寺山修司の「地獄」   決定版(少なからず字句の訂正箇所あり)

〇   兎追ふこともなかりき故里の銭湯地獄の壁の繪の山(田園に死す/少年時代)

 街に銭湯が少なくなり、入浴設備の無い安アパート住まいの貧乏学生やサラリーマンなどが困っていて、社会問題化されている、とか?
 斯く申す私・鳥羽散歩などは、大学なる後期高等教育を施す施設に入獄するための受験料を肇として学費一切、生活資金の大半をアルバイトで稼いで賄っていたから、謂わば貧乏学生中の貧乏学生であった。
 だが、幸いなことに、大学時代の四年間は、郷里出身の一篤志家の提供に拠る東京都大田区山王の土地に郷里の市町村が建設した学生寮で過ごしていたから「長期間入浴していないが故に身体が臭くなり交通機関や学内で居場所が無くて困った!」などという経験をしていないが、今になって振り返ってみると、そんな経験しておくことも必要であったのかも知れません。
 数多なる学友の中には、そんな悪業を背負わせられながらも机にしがみ付いて勉学に励んでいるが故に「村八部」状態に置かれている男性が少なからずいたに違いない。
 その頃の東京都内の街々は「東京オリンピック」という事で大賑わいを見せていたように私には思われましたが、それは上辺だけの事で、サラリーマンも学生も、明日の職や食を求めて歩き回り喘いでいたのが昭和三十年代の祖国・日本であったに違いない。。
 そんな祖国日本の国民の一人であった寺山修司は、私同様に我が国の辺地・東北地方に生まれ育ったのであるから、私同様の「田舎っぺ」であったのかも知れません。
 都会の銭湯の背面に描かれるペンキ絵の定番は<日本一の富士の山>であるが、寺山の郷里の青森市や三沢町の銭湯の壁には、あの斎藤茂吉好みの「地獄極楽図」が描かれていたのであろうか?
 否、そんなことは断じてあるまい!
 仮に、寺山が生まれ育った青森県の銭湯のペンキ絵の図柄が「地獄極楽図」であったとしたならば、私が生まれ育った秋田県の銭湯のペンキ絵の図柄だって「地獄極楽図」であったに違いないが、私は、私の郷里の秋田県内の銭湯で、そんな珍しい図柄のペンキ絵に、ただの一度として出会ったことがないから、これは<嘘つき修司>のついた<嘘偽りごと>に違いない!
 察するに、「○〇地獄物」の掉尾とも言えるこの作品は、彼の歌人としての先人とも云うべき斎藤茂吉がが好んで詠んだ「くれなゐの炎燃えたつ火車に亡者を載せて白き鬼引く・飯の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口のおどろくところ」と云った短歌に登場する、いわゆる「茂吉好みの地獄極楽図」などから刺激を受けての発想されたものかと思われる!
 一首の意は「故郷の銭湯の壁に描かれいたペンキ絵の図柄は地獄図であったが、私は、その銭湯地獄の山で、ついぞ兎狩りをしたこともないままに大人になってしまった!」といったところであり、先人・茂吉の歌にある<地獄極楽図>から<故郷の銭湯の壁のペンキ絵の地獄>が思い起こされ、事の序でにその「地獄」に「山」を付け、「山があるならば兎がいるはずだ。兎がいたらガキンコたちが兎狩りをするはずだ。だが、怠け者の私は、兎狩りと云う<大人になるための必須条件たる割礼>を為されないままに大人になり、この東京の芝居小屋の主みたいな存在になってしまった!」と、自らの死に際をひしひしと感じているのが、薄幸の才人・寺山修司なのである。


〇   間引かれしゆゑに一生缺席する學校地獄の弟の椅子(同上/少年時代)

 「間引き」などという忌まわしい言葉に、昨今の若者たちの多くは接したことがないはずだ!
 貧乏百姓の小倅だった私・鳥羽散歩は、間引かれこそしなかったものの、「散歩よ!お前はあの山の大杉の根元に在る穴の中に捨てられていたのを、この家の主が拾って来た育てたんだぞ!だから、お前を生んだ母親は、あの山の奥に棲む<やまんば>なんだぞ!」などと言われて悔しい思いをしたことがあります。
 そうした悔しい思いをしながら成長した者は、何も私一人ではなく、同世代の子供の中でそんな悔しい思いをしなかったのは、「旨い酒・遼関」本舗の社長の愚息・糸井喜朗君や、「銘酒・福娘」の醸造元の「廼村酒屋」の長男の廼村優太郎君ぐらいのものだったに違いない!
 その廼村優太郎君と小学校六年間を通じて同級生だった私にとっての学校こそは、まさしくも「学校地獄」そのものであった。
 私は、貧乏人の小倅のくせして記憶力が抜群であり、勉強がよく出来、しかも、駆けっこが人一倍速いかったから、<テストでいつも満点を取っている>からと云って虐められ、<運動会の百メートル走で勝った>からと虐められ、挙句の果てには、学級担任の和賀林内我先生からも、「算数のテストでカンニングの疑いあり!」との罪状で、時折は虐められたものである。
 然しながら、この一首の主題となっている「学校地獄」は、彼・寺山修司の「そうであって欲しい」との妄想から成り立ったものであろう?
 何故ならば、「学校地獄」こそは、後年、名を成す事が約束されている子供にとって必要なものの一つだからである。
 斎藤茂吉の短歌の「地獄極楽」から始まった連想ゲームが「地獄極楽→銭湯地獄→學校地獄→呉服屋地獄→本屋地獄→おでん屋地獄→畳屋地獄→障子地獄→(中略)→花園地獄→」と連なり、「アベシンゾウ地獄→スガヨシヒデ地獄→キシダフミオ地獄→日本沈没地獄」と発展するはずたったのであるが、その途上で作者ご自身が「地獄」に陥落してしまったのでありましょうか?


〇   町の遠さを帯の長さではかるなり呉服屋地獄より嫁ぎきて(/同上) 

 寺山修司得意の「〇〇地獄」も、さすがに「呉服屋地獄より嫁ぎきて=町の遠さを帯の長さではかるなり」とあっては、真につまらなし!
 駄作である! 
 

〇   夏蝶の屍ひそかにかくし來し本屋地獄の中の一冊(同上/同上)

 察するに、「本屋地獄の中の一冊」に「夏蝶の屍ひそかにかくし來し」という一首の発想源は、梶井基次郎作『檸檬』にありましょう。
  「丸善の棚」に檸檬爆弾」が在るんだから、「本屋地獄の中の一冊」に「夏蝶の屍爆弾」が在ったとしても何ら不思議ではありませんね!詩歌句誌面の愛読者の皆様方よ!
 拠って、以下の余白に、梶井基次郎作『檸檬』の末尾数行を、「青空文庫」より転載させて頂きます。

 「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃ほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩どっている京極を下って行った。

 
〇   ひとに賣る自傳を持たぬ男らにおでん屋地獄の鬼火が燃ゆる(同上/捨子海峡)

 私・鳥羽散歩も「ひとに賣る自傳」一章ぐらいはものしたいものであるが、「未だし……」というところなのかな?


〇   家傳あしあとまとめて剥ぎて持ち帰る畳屋地獄より來し男(同上/発狂詩集)

 <事業に失敗する>などの理由で、借金地獄に陥った家には、「銀行」や「街金」などの債権者が殺到して何もかも持ち去る!
 例えば、「中風を患って寝ている老婆の寝床の下の畳まで剥がして持ち去る!」という話を、私・鳥羽散歩は子供の頃に本家の爺様から聞いていて、「例え、オ〇〇コ地獄に陥ったとしても、借金地獄にだけは陥りたくないものだ!」などと思ったりしたことがありましたが、才人・寺山修司も、そのような思いに捉われて悩んだことがあったのでしょうか?


〇   鶏頭の首なしの莖流したる川こそ渡れわが地獄變(新・病草子) 103首中の7首

 作中には「鶏頭の首なしの莖」とありますが、「鶏頭」ならぬ「鶏」が、鉈でもて頭部を断たれ、「首なし」状態で庭の辺りを暴れ回っている光景を、私は目前にしたことがありますが、これこそは「わが地獄變」なのかも知れません!
 なお、芥川龍之介作に『地獄變』なる傑作在り。ご参考にされたし!


〇   北海の障子地獄の荒しぶき針をくわえてふりむく母は(月蝕書簡/母の古代) 187首中の1首

 この一首に描かれた光景と類似した光景を描いた「浮世絵(地獄絵)」があったように、私は記憶しています。
 また、拙作に「背を病める徒弟貼り居し襖絵の責め凄かりき穂村経師舗」という一首が在りますから、ご参考までにご一覧下さい。       
 なお、拙作中の「穂村経師舗」なる名称は、私の郷里にかつて実在した<経師屋>の仮称であります。


 寺山短歌の魅力の一つは、恐山の在る青森県で生れ育った寺山修司が好みそうな「〇〇地獄」を含んだ作品とされているが、意外なことに、「○○地獄」を含んだ短歌は、彼の詠んだ凡そ千首の中の七首がそれであり、しかも、その中の六首が、彼の第三歌集である『田園に死す』の所収歌である。
 逝き先は極楽か地獄かは確かとは存じ上げませんが、1983年〈昭和58年〉5月4日に僅か四十七歳で敗血症であの世に旅立った彼が、第三歌集『田園に死す』を上梓したのは1965年(昭和40年)であるから、「〇〇地獄」を含んだ短歌は、決して<若書き>とは言えず、むしろ彼が短歌と訣別する間際に詠んだ作品でありましょう。
 また、この「〇〇地獄」ものの全てが傑作とは言えず、むしろ、連想の赴くままに無理矢理に仕立て上げた作品、即ち、寺山作らしからぬ駄作もありましょう!

「『りとむ・創刊30周記念号』所収の『寺山修司短歌語彙』」を読む  執筆途上にて失禁!

 昨日・一月十七日の午前九時過ぎに、私は女房と連れ立ってイオン新百合ヶ丘店に食料品の買い出しに出掛けました。
 実を言うと、「これから食糧の買い出しに出掛けるぞ!」といった気分で大風呂敷をふところに入れ、しかも、わざわざバスにまで乗って買い物に出掛けたのは、年が明けてから昨日が最初なのである。
 と云うのは、昨年末の三十日と三十一日の二日間に件のイオン新百合ヶ丘店、及び、三和百合丘店にて、食品を肇とした.正月用品の大半を買い求めていたので、長男一家四人が<恒例のお年始>と称して<お年玉の集金>に遣ってくるに違いない元旦から三、四日間に食する物の大半は冷凍庫に格納済であったのであり、その上、お金を遣うことを唯一の趣味にしている独り身の次男が、「昨夜の大安売りで買った」と称して、ズワイガニ・タラバガニ・毛ガニなどのカニ類や筋子に明太子、超大型のプラ製パック入りの刺身セット二組などと、ありとあらゆる御馳走を両手に提げて元旦の夜明け前に我が家の玄関先に姿を見せたので、それらの品々をも大型の冷凍庫に格納していたから、長男一家四人がいくら食いしん坊でも正月のご馳走には不足無しと思われ、また、.食いしん坊四人組が食い余したものを、俗世間の方々と比較するとやや口が小さめの私と女房とがチビリチビリと食べていると、松の内からの数日間は大風呂敷を広げて買い出しに出掛けるような必要が無かったからのである。
 例に拠って例の如く、前口上が長きに亙りましたが、これからが本番である。
 実を申し上げますと、イオンで買い物をしたのは女房一人であり、私・鳥羽散歩の本来の目的は、川崎市立麻生図書館で、「短歌結社誌『かりん』及び、同じくは『りとむ』の、なるべくは新しい冊子をの帯出せむ」という点にありました。
 ところが、第一目的の『かりん』は昨年の九月号までしか無かったので止む無く諦め、目的を「りとむ」に変えたところ、「『りとむ』の2022年7月号」が、「創刊30周年記念号」という事で、通常のものより五倍増の分厚さであったので、早速、その帯出に及んだのでありました。
 件の『創刊30周年記念号』は、総ページ数が四百余ページという分厚さであり、その半分以上を占める二百数十ページは「資料編『寺山修司短歌語彙』」というスペシャル版でありました。
 帰宅して早速、件の「資料編『寺山修司短歌語彙』」をペラペラと捲ってみたところ、要するに、寺山修司が生前に刊行した四冊の歌集所収作品・一千首弱を単語単位で分解し、五十音順に並べただけの代物で、世の寺山ファンと云えども、随喜の涙を流して喜悦するといった体裁のようには見受けられなかったのであります。

 ところが、ところがである!
 夕餉が終わり、件の大冊を私は自らの寝室に携えて行って、熟読玩味に及んだのではありますが、その初っ端に目に着いたのは、「愛・愛語・青空・青麦・悪霊・揚羽・明日」などと云う、昔馴染みの寺山短歌に用いられていて、「寺山語彙」と呼ぶが当然の名詞であり、その後にも陸続と登場するのは、「明日・飴屋・遺産・一漁夫・田舎教師・犬・鰯雲・嘘・海霧・斧-叔母・果樹園・棺・嚏・黒髪・故郷・国語教師・黒人悲歌・殺人者・死火山・」といった、凡そ、世の寺山短歌ファンならば、これらの名詞は、寺山修司作の4冊の歌集の何れの作品に用いられている単語なのか、と見当が付けられるような単語なのであり、別の言い方をすれば、これらの名詞の何れもが「遊郭・テラヤマ」の<御職>を張れるような単語なのでありました。

 

随想『ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー』

「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」ってヤツが確かにありましたよね!
今となっては何を言ってんだかわかんなくなってしまいましたが、あれは当代不人気の「サッポロビール」が「これ一発で起死回生を図らん」とばかりに人気タレントを起用して歌わせた<コマソン>だったんでしょうが、一年遅れの西暦2021年に、東京どころか横浜市や千葉市やさいたま市や首都圏内の県庁所在地、否、それどころか、東日本大震災の被災地・福島県福島市や神奈川県藤沢市や埼玉県川越市、そして、千葉県長生郡一宮町なんちゅう中学時代に「社会科辞典」というニックネームで呼ばれていた私・鳥羽散歩でさえその存在を知らなかったド田舎の町、否、否、それどころか、さんざん思案した挙句に、その責任の一端をおっ被せるためになのか、遥遥と津軽海峡を渡っての向う側の北海道は札幌市でも実施された「東京オリンピック・2020」が予め予測していたような経済効果を上げることが出来なった挙句に「東京オリパラ疑惑」まで発覚し、古今東西無比の「疑惑オンパレード」となり果ててしまった現在では、件の「三都市がいずれも北緯45度付近に位置し、優秀なホップを栽培できる絶好の気候であるが故に、世界的に名の知られたビールの生産地であり、加えて、冬季オリンピック大会の開催地であった」事などは、近頃の若者たちの誰一人として知っては居ないに違いありません。
 それにしても、何ですねー!あの「オリパラ疑惑」ちゅう腹の立つ奴は、あの「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」の時にも在ったんですかね!あの時代にも、アベ元宰相的な存在が居て、聖なる存在であるべき「五輪大会」の自国開催を意図して、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」などと云う「嘘八百」を並べ立てたんでしょうかね!
 それに同調して、この度、首尾よく参議院議員としての存在を証かすバッジを手に入れたイノセナオキって奴紛いの奴が、「私たちは、大会を確実に成功に導くため、宿泊やセキュリティといった、すべての重要な分野において、東京が擁するインフラを提供いたします。輸送面でも、交通網がすでに整備されており、確実な能力を有しています。この大会が開かれる2020年の東京では、誰もが、常に時間通りに目的地へ到着することができるのです」なんて、大東亜戦争当時の閣僚の演説紛いの口上を並べ立てたんでしょうかね!
 その嘘八百の演説をする為に用いた言語が、英語であったかドイツ語であったか日本語であったかの区別は、私にはできませんけれどね!
 あの「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」当時にも、東京オリパラ大会組織委員会の元理事・タカハシ的な悪者が居て、関係方面からしこたま袖の下を貰ったりしていたんでしょうかね!
 だとすると、私はこの世の中の事の何もかもが信じられなくなった!
 この先、もう二十年くらい生きられるとしたら、この私・鳥羽散歩は、一体全体、何を信じて生きて行けばいいんでしょうかね!拙ブログ「詩歌句誌面」の愛読者の紳士・淑女の方々よ、どうか、この<迷える子羊>の私に教えて下さいませよ!どうかどうか、一世一代のお願いですから!

 ビールのことなら分かるんだ!
      ビールの味なら判るんだ!
           「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」
                 「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー……………」

舌代!

抱腹絶倒の「短歌バラエティ『引揚船、興安丸でお世話になった邑居さん!』」に続いて、その続編とも謂うべき、「随想『尋ね人の時間』」が、本日午後、北方四島以西の日本国内に於いて、恥かしながら一般公開の運びとは相成りましたから、拙ブログ「詩歌句誌面」の読者諸氏に於かれましては、何卒、ご高覧賜りたくお披露目申し上げます。