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詩歌句誌面

読解なくして論評あらず。

千曲川  津村信夫

     千曲川

その橋は、まこと、ながかりきと
旅終はりては、人にも告げむ、

雨ながら我が見しものは、
戸倉の燈か、上山田の温泉か、

若き日よ、橋を渡りて、
千曲川、汝が水は冷たからむと、
忘るべきは、すべて忘れはてにき。


 
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「丸山薫詩集『帆・ランプ・鷗』」より

    翼


 鷗は窓から駆けこんで
 小屋のランプを微塵にして
 そのまま闇に氣を失つた
 かつては希望であつたらう
 潮に汚れた翼が
 いまは後悔のやうに華麗に匂つてゐる



    挿 話


 蝙蝠が帆に巻き込まれ
 帆は帆桁(ヤード)に括られたまま
 風が出なかつたので
 いつまでも展らかなかつた
 ──あれからどうしたらう?
 舷燈(ランプ)がそんな獨り言を言つた



    闇


 ランプを闇に點すと
 ランプは叫んだ
 ──むかふの闇が見えない 見えない

 むかふの闇に置くと
 また叫んだ
 ──いま居た所が暗くなつた 暗くなつた

「長田弘作『花を持って、会いにゆく』」鑑賞

         『花を持って、会いにゆく』      長田 弘


              春の日、あなたに会いにゆく。
              あなたは、なくなった人である。
              どこにもいない人である。

              どこにもいない人に会いにゆく。
              きれいな水と、
              きれいな花を、手に持って。

              どこにもいない?
              違うと、なくなった人は言う。
              どこにもいないのではない。

              どこにもゆかないのだ。
              いつも、ここにいる。
              歩くことは、しなくなった。

              歩くことをやめて、
              はじめて知ったことがある。
              歩くことは、ここではないどこかへ、

              遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
              どんどんゆくことだと、そう思っていた。
              そうでないということに気づいたのは、

              死んでからだった。 もう、
              どこにもゆかないし、
              どんな遠くへもゆくことはない。
 
              そうと知ったときに、
              じぶんの、いま、いる、
              ここが、じぶんのゆきついた、

              いちばん遠い場所であることに気づいた。
              この世からいちばん遠い場所が、
              ほんとうは、この世に

              いちばん近い場所だということに。
              生きるとは、年をとるということだ。
              死んだら、年をとらないのだ。

              十歳で死んだ
              人生の最初の友人は、
              いまでも十歳のままだ。

              病いに苦しんで
              なくなった母は、
              死んで、また元気になった。

              死ではなく、その人が
              じぶんのなかにのこしていった
              たしかな記憶を、わたしは信じる。

              ことばって、何だと思う?
              けっしてことばにできない思いが、
              ここにあると指さすのが、ことばだ。

              話すこともなかった人とだって、
              語らうことができると知ったのも、
              死んでからだった。

              春の木々の
              枝々が競いあって、
              霞む空をつかもうとしている。

              春の日、あなたに会いにゆく。
              きれいな水と、
              きれいな花を、手にもって。


 最後から一つ前の聯に「春の木々の/枝々が競いあって、/霞む空をつかもうとしている。」とあるが、私にとって生きて行くとは、斯くの如き行為だと思う。
 私もまた、春の日にきれいな水ときれいな花を手に持って、何処にも居ないあなたに会いに行きたいものである。
 それにしても今日は暑い。
 特別に暑い。
 今年最高の暑さである。
 風がすいすいと通り抜けるリビングに掛けているアルコール寒暖計の赤柱が、摂氏三十五度であると言ってひいひいと嘆いている。

朝日新聞夕刊掲載の「あるきだす言葉たち」を読む(2018/6/13掲載)

   「不意」    小川三郎


   背中の荷物を
   下ろそうと思い
   まずはそこに腰かける。
   指に蝶がとまる。

   蝶は横を向いて
   知らん顔をしている。
   指を振ってみても
   飛び立たずにじっとしている。

   指先に
   蝶の足の力を感じる。
   強くしがみついている。

   荷物が肩に食い込んでいく。
   汗が滝のように流れていく。

   いま蝶に飛び立たれることが
   なぜかひどく恐ろしくて
   身体の震えが止まらなかった。

   顔を近づけて
   蝶をじっと見つめる。
   蝶は知らん顔をしている。


 本詩の鑑賞者は、タイトルの「不意」に留意しなければなりません。
 作中の「蝶」は、「不意」に作中人物の「指にとまる」のでありますが、作中人物がその蝶を「知らん顔をしている」と感じるのも、「指を振ってみても/飛び立たずにじっとしている」と感じるのも、「指先に/蝶の足の力を感じる」のも、「強くしがみついている」と感じるのも、「蝶は知らん顔をしている」と感じるのも、みんなみんな、件の作中人物の胸中に不意に兆した感覚でありましょう。
 また、作中人物自身が「荷物が肩に食い込んでいく」と感じるのも、「いま蝶に飛び立たれることが/なぜかひどく恐ろしくて/身体の震えが止まらなかった」のも、作中人物の異常心理とでも言うべき自意識の為す業なのでありましょう。
 ところで、この作中人物の異常心理的自意識を主題とした詩には、「僕」とか「私」とか「我」とかの第一人称を示す言葉が登場しませんし、また、「きみ」とか「あなた」とか「彼」とか「彼女」とかの第二人称、第三人称を示す言葉も登場しません。
 然し乍ら、こうして作中に動作主体を指示する名詞や人称代名詞が登場しない場合は、私たち鑑賞者は、「作中人物」即ち「作者」と仮定して解釈するのが通例でありましょうから、この詩は、作者自身の異常心理的自意識をテーマにをした作品でありましょう。
 本詩の作者・小川三郎は、「1969年神奈川県生まれ、2010年の詩集『コールドスリープ』で横浜詩人会賞受賞。他に詩集『フィラメント』(港の人・刊)、『象とY字路』(思潮社・刊)などを著す」とか。

「茨木のり子詩集『自分感受性くらい』」より

    「自分の感受性くらい」    茨木のり子


 ぱさぱさに乾いてゆく心を
 ひとのせいにするな
 みずやりを怠っておいて

 気難しくなったのを
 友人のせいにするな
 しなやかさを失ったのはどちらなのか

 苛立つのを
 近親のせいにするな
 なにもかも下手だったのはわたくし

 初心消えかかるのを
 暮しのせいにするな
 そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を
 時代のせいにはするな
 わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ


 「自分の感受性くらい自分で守れ」と厳重注意されたうえに「ばかものよ」とまで罵倒されれば開き直りたくもなるのであるが、そもそもこの詩の作者は、他人相手に「自分の感受性くらい自分で守れ」と言い叫んでいるのではなくて、感受性をコントロールできない自らを「馬鹿者」呼ばわりしているのでありましょう。
 そうです。
 「ばかもの」呼ばわりされなければならないのは、この詩の作者のみならず私たち日本国民総員なのである。

    馬鹿者は安倍首相のみならず私たち国民全員なのだ!    鳥羽散歩
    安倍ちやんを馬鹿者呼ばわりする者は馬の屁を嗅ぎ馬券でも買へ!



 

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