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詩歌句誌面

読解なくして論評あらず。

古雑誌を読む(短歌・2018年3月号)

 角川「短歌」三月号の伊藤一彦作「矢の的」、大島史洋作「こわれた」、日高堯子作「黄金」、沖ななも作「暦」(其々二十八首)は、孰れも注文生産作とでも言うべき群作であるが、それに続く、十首群作中の大谷雅彦作「みずうみ」は、なかなかの傑作揃いなので、まずは、以下にそれを転載し、併せて、それらに就いての私の感想なども述べたいと思う・

      「みずうみ」  大谷雅彦(短歌人)

〇  みずうみに向かへる径にいくたりか影あをき人戦ぎてゐたる
〇  湖までの径はときをり曲がりゐてわがひとつ影ふいに隠れぬ
〇  やはらかな冬日の朝の影ひとつわれを離れてそよぐしばらく
〇  ふはふはと朝の視界にただよへるぼたん雪の影あをみてつづく
〇  白き尾の猫がよぎりしあと濡れて月明かり差すけものみち見ゆ
〇  けものみちふいにわがまへに顕はれてうすあをき風がしばらくつづく
〇  かわきたる空に二層の風ありてときをり沫き色に交はる
〇  われのみの谺が還りくる夕べやや鈍き間合ひをひたすらに待つ
〇  ふいにわが影をちぎりて吹きすぎし風の尾見ゆる如月の尽
〇  ゆくりなくわれを追ひこしゆきしとき風の尾あをく人形に顕つ
  
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古雑誌を読む(短歌・2018年3月号)

 角川 「短歌」三月号の連載グラビア誌面「三月の歌」(田村広志選)には、次の如く、近現代歌人の五首の短歌が掲載されている。

〇  蜜柑箱ふたつ重ねてめりんすの赤き切しく我が子等の雛  與謝野鉄幹『相聞』

 「蜜柑箱ふたつ重ねてめりんすの赤き切しく」雛壇とは、いかにも作者・與謝野鉄幹の在世当時の時代色と生活の質素さを感じさせるが、作風そのものは、所謂「虎剣調=鉄幹風」とは異なり、意外にも今風である。


〇  山里に桜は未だ来よといふ人だになくて弥生つもごり  北沢郁子『満月』

 二句目に置かれた、 副詞「未だ」の位置が不安定であり、歌意を判らなくしている。


〇  もくれんの冬芽のにこ毛天にてり生きのこれ生きのこれ裸のこども  渡辺松男『雨る』

 掲載作とは直接的な関りがありませんが、因みに記しますと、歌集名『雨る』の「雨」に「ふ」という振り仮名が施されているので、歌集名を<ひらがな書き>すると「ふる」ということになる。
 これでは、未だに大人になり切れていない歌人ちゃんの質の悪い悪戯という他ありません。
 「天」に照り輝く「もくれんのにこ毛」から、冬着姿の子供を連想し、待ちに待った春が来たので、その冬着を脱いで「裸」になった「こども」に、「生きのこれ生きのこれ」と呼び掛け、激励している、といった内容の一首かと判断されるが、作者が病気療養中であることを考慮すると、それなりの情感と伴った作品と言わなければなりません。
 

〇  今日はひとり中島みゆきを聴いていたい 菜の花の雨こころに甦る  三枝浩樹『時禱集』

 「甦る」は「かえる」と読む、とのこと。
 「菜の花の雨」とは、俳句で謂う「菜種梅雨」の意であろう。
 しかし乍ら、下の句に「菜の花の雨こころに甦る」とあるところから判断すると、作者の三枝浩樹は、菜種梅雨の季節とは異なる季節なのにも関わらず、胸底に菜種梅雨の記憶を蘇らせて、「今日はひとり中島みゆきを聴いていたい」と思っているのでありましょう。
 望まれて有力結社誌「沃野」」の主宰の座に座っている彼にして、「ひとり中島みゆきを聴いていたい」とは?
 それに、結社誌「沃野」は、今どき珍しい「文語・旧かな遵守」派ではなかったかしら?


〇  三月の朝に降る雪 花のように唇にふれ溶けてゆきにき  福島泰樹『下谷風煙録』

 詞書の「辛い別れもあった」が、何よりも雄弁に一首を読解してくれていて、作者の創作意図を物語っているように判断されます。

 ところで、昨日の「全日本柔道選手権」の決勝が、三連覇を狙っていた、王子谷剛志の反則負けに終わったのは、すこぶる残念なことであった。
 原沢・王子谷両者の、現在の力量から判断すると、明らかに後者が優れている。
 にも拘わらず、審判の主観的判断でしかない、反則三回で以って、王子谷<負け>、との判断を下した、審判員には猛省を促さざるを得ません。
 勝者の原沢には、三回目の反則を盗ろうとしている意図が見え見えであった。
 また、敗者の王子谷も、あの程度の試合で息切れするとは、あまりにもだらしない、と言うべきである。
 決勝は、それ以前の試合とは別である!
 よほどの事がない限り、滅多矢鱈に、「反則」との主観的判断を下さずに、明らかなる勝敗が決するまで、戦わせるべきである。
 その為には、選手も審判も忍耐しなければなりません!

古雑誌を読む(短歌・2018年3月号)

 久々に角川「短歌」の三月号を拾い読みしている。
 巻頭のグラビア連載記事「時間のあやとり」は松村正直氏に依る<函館>である。
 明治20年当時の<函館金森赤煉瓦倉庫>のモノクロ写真と共に、「函館に初めて降り立ったのは、一九九六年一月七日のこと。大学卒業後、いろいろな町に住みたいと東京を離れ、岡山、金沢と移り住み、三番目に選んだのが函館だった。既に青函連絡船が廃止されていて・・・・・・・・」という、松村氏に依る函館での思い出話的な紹介記事と共に、次の一首が掲載されている。

〇  のぼり来てひとり見下ろす函館のルビンの壺のような夜景を   松村正直

 作中の「ルビンの壺」とは、1915年頃にデンマークの心理学者エドガー・ルビンが考案した、壺形の多義図形であり、背景の黒地に視線が行くと、向かい合った二人の人物の顔に見え、真ん中の白地の部分に注目すると壺に見えるという視覚的図形である。
 私は、過去に数回、函館観光に訪れ、函館観光の目玉商品とも言われる、函館山から見下ろす函館の夜景を一望したことがあるが、言われてみれば確かに、函館山から見下ろす函館の夜景は「ルビンの壺」に似ている。
 函館半島を囲む津軽海峡の海面、即ち、ルビンの壺の黒地の部分が、向かい合った二人の人物の横顔の部分という見立て、真ん中の函館半島の白地の部分が、壺の部分という見立てである。
 本作の作者・松村正直氏は、現在、短歌結社誌「塔」の編集者として、我が国歌壇の中核をなす人物の一人であるが、駒場東邦高等学校、東京大学文学部独文科卒業後、8年間フリーターをしながら全国の地方都市を転住して歩いた経歴を持つ若者であった。
 私は、彼・松村正直が1999年、五十首連作短歌「フリーター的」で以って、第四十五回角川短歌賞の次席に選出されたこと、及び、誌上に掲載された五十首の作品を、未だに鮮やかに記憶している。
 その頃の私は、彼の歌人としての資質に幾分かの疑いを持つ傍ら、その幾倍かの羨望感に囚われて居て、フリーターとしての彼はルビンの壺の黒地の部分であり、東大卒・角川短歌賞次席歌人としての彼はルビンの壺の白地の部分であるだろうか、などといったような思いに囚われていたような気がする。
 思うに、彼・松村正直も亦、名にし負う、函館山からの函館の夜景を一望しながら、時に、その夜景の黒地の部分に視線を遣り、時に白地の部分に視線を遣るなどして、目眩まし状態に陥っていたものと、私には思われる。
 時間というものは、時に津軽半島の荒波の図形を織りなし、時に光り輝く函館の夜景や名峰富士の図形を.織りなすなどして、まさしく「時間のあやとり」とも言うべき存在である。  

今週の「朝日俳壇」より(2018/4/29掲載)

〇  たよりなき百円店の種袋  (久慈市)和城弘志

 「種」は春の季語。
 句意は「百均で買う種は、その袋からして薄っぺらで、なんだか頼りない気がする。」ということ。
 私の記憶しているところに依ると、「緋寒桜の散る頃が夏咲きの花や夏野菜の種を畑に蒔くべき時期」なのである。
 察するに、本句の作者は、僅かばかりの空き地に種を蒔いて野菜や花を収穫しようとしている、素人百姓なのでありましょう。
 と、言うわけで、本句の作者は、緋寒桜が散り始めた三月半ば過ぎに、<セリア久慈店>をおみ足をお運びになられ、種物コーナーに行って、自分が収穫しようとしている、夏咲きの花や夏野菜の種を買おうとしたのであった。
 ところが、彼が手にする「種袋」は、あまりにも薄っぺらで、なんだか頼りない感じであり、仮に十粒蒔いたとしたら、その中の二つか三粒くらい芽を出せば、めっけものという感じなのである。
 尚、「百円店」は、正確に言うならば、「108円店」と言うべきか?
 何故ならば、私たち消費者にとっては、8パーセントの消費税を含んだ金額が、その品物の代金なのだから。
 長谷川選の四席。


〇  春泥の歩きにくさを喜こぶ子  (旭川市)大塚信太

 私の経験に照らしてみても、<泥んこ遊び>こそは、自然の子である、私たち子どもにとっては、春一番の最も楽しい遊びなのである。
 父親と一緒の外出時に、わざわざ選んだようにして、泥濘に足を運び、「春泥」の感触や「歩きにくさ」を喜んでいる子の様子が髣髴とされる一句である。
 「春泥」は春の季語。
 同選の六席。
 

〇  花は葉にきのふのありてこその今日  (柳川市)木下万沙羅

 昨日の「花」が今日は「葉」になることは、満開の桜が束の間に葉桜になってしまう事から察しても、極めて納得がゆくことである。
 昨晩飲み過ぎたために、今朝は頭が痛くて会社を休んでしまった、などという事は、およそ人間ならば、特に男性ならば、一度や二度、誰でも経験していることでありましょう。
 大串選の五席。  

今週の「朝日歌壇」より(2018/4/29掲載)

〇  猪よ残してくれてありがとう竹の子一本抱きて帰る  (福岡県)住野澄子

 作者のご氏名は「住野澄子」さん、これは即ち、「私はどうせ隅の隅っ子に、肩身を狭くしている女の子でしかありませんよ」との、皮肉を込めたメッセージなのかも知れません。
 しかし乍ら、本作は、堂々と.高野公彦選の七席を占める入選作品なのである。
 竹藪を荒らし回る「猪」が食べ残した「竹の子」では、どうせ固くて食べられないと思いながらも、背負い籠に、その猪の食べ残しの竹の子を一本入れて、家路を急いでいるのでありましょうか。
 四句目は「タケノコいっぽん」と、した方が宜しい。


〇  大型ゴミに出されたソファー葉桜を見つつ自己完結してやすらぐ  (京都市)森谷弘志

 桜並木の道端に「大型ゴミ」の集積所になっている光景は、私の徘徊経路に於いても、よく見受けられる光景である。
 その可哀そうにも「大型ゴミに出されたソファー」が、「葉桜を見つつ自己完結してやすらぐ」と仰るわけですから、そんなことを仰る作者ご自身が、日頃から粗大ごみ扱いされているのではないか、と、私などはあらぬ想像してしまいます。
 だとしたら、それでも尚且つ、「自己完結してやすらぐ」のだとしたら、本作の作者こそは、自分の立場をよく弁えた人格者なのかも知れません。
 三句目から五句目に亘る、複雑な<句割れ句跨り>、かつ<一音字余り>の二十音「葉桜を見つつ自己完結してやすらぐ」は、韻律が宜しくありませんが、着想の目新しさに免じて、佳作としたいと思います。
 同選八席。


〇  ねえちゃんを想ってくれる人がいて今日はほのぼのレモネード色  (富山市)松田わこ

 かつての常連の松田わこさん、久々の朝日歌壇入選!
 然し乍ら、高野選・永田選の末席では「おめでとう」と言う気にもなりません。
 それにしても、「今日はほのぼのレモネード色」という下の句は、小学生短歌並みのレベルではありませんか!
 松田わこさん、貴方も高校生なんですよ!
 松田短歌姉妹に成長の跡が見受けられません!
 この凡作が四選者共選作品として入選したんでは、私たち大人の歌詠みはやってらんない!
 相も変わらず、朝日歌壇の選者連は、松田姉妹に甘すぎます!!
 

〇  善人の沈黙それが最大の悲劇とキング牧師は言った  (館山市)吉良康矢

 もう少しで「私もキング牧師のご意見に賛成!」と叫んでしまいそうになりましたが、よくよく熟慮してみれば、我が国の昨今の政界の現状に居座っていて「沈黙」を保っている者が「善人」であるはずはありません。
 それはそれとして、「善人の→沈黙それが→最大の→悲劇とキング→牧師は言った」という口語の流れはなかなか宜しい!
 永田選首席。


〇  忖度をする人される人ありてされる側には自殺者のなし  (前橋市)荻原葉月

 かつては、あの森友学園理事長の籠池泰典氏も「忖度をされる側」の一人であったことを、私は決して忘れません!
 だからと.言うわけではありませんが、籠池泰典氏は、決して自殺するタイプの人間ではありませんよね!
 永田選二席、馬場選首席。


〇  忖度の次は改竄隠蔽と画数ふえて闇深まりぬ  (横須賀市)小知和弘子

 ほんと、ほんと!
 「改竄」の「竄」や「隠蔽」などの画数の多い文字を目にすると、「忖度」の頃よりは、ずっとずっと「闇」が濃くなり、深まったように思われますね!
 認識短歌、発見短歌の秀作として、後世まで誉め称えられる作品である。
 永田選三席。


〇  内陣に供へおきたる八朔を下ろして嫁せし娘に持たす  (三原市)岡田独甫

 久々にお里帰りをした「娘」に持たす里土産が「内陣に供へおきたる八朔」だとしたら、彼の大和上の「娘」さんとやらは、あまりにも可哀そうではありませんか?
 つい、うっかり、こんなことを書いてしまいましたが、作者が作者ですから、「この不心得者!由緒正しいお寺の内陣に供えた八朔を、貴様は何と心得おるか!その八朔を食した者は、百五十歳までの長命を保つに違いないぞよ!」などとの、きついお叱りの言葉がコメントとして寄せられるかも知れません。
 永田選の七席入選作品ではありますが、朝日歌壇の常連作家たる岡田独甫大和上の代表作とも申せる傑作である。


〇  やめてくれ桜吹雪は出来過ぎさ再発告知の病院帰り  (所沢市)小坂進

 「出来過ぎさ」と言うよりも!
 永田選八席。


〇  くまモンのマスクをつけてくしゃみする女性の座る春の地下鉄  (東京都)夏目たかし

 妙齢の「女性」が「マスクをつけてくしゃみする」光景は、昨今の首都圏の電車やバスの車内で、よく見かける光景ではありますが、寡聞にして、私は、「くまモンのマスクをつけてしゃみする女性」と、同じ車内に乗り合わせたことはありません.!
 花粉症騒ぎもそろそろ収まりそうではありますが!
 馬場選五席。

二嶋結歌集

〇 みな人のハワイに遊ぶ連休を吾は歌詠む拙い短歌   二嶋結

〇 人らみなハワイの海で泳ぐ日を吾は歌読む茂吉の歌を

〇 永き日のスモカの琺瑯看板の「ス」の字の暮れて「モカ」には西陽

ブログ逍遥

  『やさしい鮫日記』は、「松村正直の短歌と生活」というサブタイトルを有する、私のような貧しい短歌ファンにとっては、大変ありがたいホームページである。
 何故ならば、このホームページにお邪魔すると、結社誌「塔」 の編集長であり、優れた歌人である松村正直氏に依る、新しく刊行された歌集所収の短歌の紹介と、その短評とを即座に読むことが出来るからである。
 そこで、今日は、.その中の2017年12月11日付けの記事,「鶴田伊津歌集『夜のボート』」を引用させていただき、それに対する私の貧しく拙い感想なども記させていただきたい。

 (以下、同ホームページからの引用)
 2007年から2017年までの作品366首を収めた第2歌集。2歳から12歳へと成長していく子を詠んだ歌が多い。
 〇 渡されし安全ピンの安全をはかりつつ子の胸にとめたり
 〇 一通り叱りし後も止められず怒りは昨日の子にまで及ぶ
 〇 子のなかにちいさな鈴が鳴りているわたしが叱るたびに鳴りたり
 〇 子を叱りきみに怒りてまだ足りず鰯の頭とん、と落とせり
 〇 七年を過ごしし部屋を去らんとす床の二箇所の傷を埋めて
 〇 些細なる嘘ほど人を苛立たすこと知らぬがに重ぬるひとは
 〇 福砂屋のカステラ届くしっとりと刃を受け止めるカステラ届く
 〇 旅人算ノートに途中まで解かれ地球のどこかが凍えておりぬ
 〇 思いやりその「やり」にある鈍感をくだいてくだいてトイレに流す
 〇 ゆびさきのよろこびゆびはくりかえし味わうポン・デ・リングちぎりて

 1首目、子の胸に名札を付けているのだろう。服に刺す時はけっこう気を遣う。
 2首目、前日の出来事にも怒りの矛先が向かう。「昨日の子にまで」がいい。
 3首目、子を叱る時の親の痛み。叱りつけた後にはいつも後悔するのだろう。
 4首目、下句に怒りの余韻が漂っていて、何とも怖い。
 5首目、「七年」「二箇所」という具体の良さ。荷物を運び出した部屋から、生活の痕跡が消えていく。
 6首目、些細な嘘は罪がないと思うのは嘘をつく方の理屈であって、聞く方はそうではないのだ。
 7首目、カステラの名店「福砂屋」。「カステラ届く」の繰り返しに高級感がある。
 8首目、問題の中の旅人は、きっとどこかに行方不明になっているのだろう。
 9首目、「思いやり」という言葉に、他人事のような感じや上から目線な態度を感じ取ったのだと思う。
 10首目、8つの玉がつながったような形状をしているドーナツ。それをちぎりながら食べる楽しさ。
               2017年12月15日、六花書林、2400円。
  (以上で引用終り。無断引用大変失礼致しました。)

 歌集所収作品の中から、たった十首だけの紹介とそれに対する短評。
 鶴田伊津氏及び松村正直氏ファンの私としては、もっと多くの所収作品に接し、もっと多くの松村氏の短評に接して、学習させていただきたいような気が致しますが、同ホームページの役割や性質などを.考慮すれば、これ以上の多きを望むのは無理なことでありましょう。
 十首の引用作品の孰れも、私ごとき若輩には詠むことが出来ない佳作と思われ、松村氏に依る短評も亦、極めて的確にして、学ぶべき点が多い文章であると拝察致しました。
 しかし乍ら、引用作品中、.七首目の「福砂屋のカステラ届くしっとりと刃を受け止めるカステラ届く」に対する寸評、即ち、「7首目、カステラの名店『福砂屋』。『カステラ届く』の繰り返しに高級感がある。」は、如何かと存じます。
 これ以上のことは申し上げませんが、松村正直氏に於かれましても、何卒、熟考なさいますよう、伏して願い申し上げます。

ホームページ逍遥

 「ホームページ逍遥」と称して、他人様の管理なさっていらっしゃるホームページやブログにお邪魔して、学ぶべき事柄に就いては学ばせていただき、怪しい内容に就いては、「その点に就いては疑問があり」などという、姿勢を低くして批判的な事をも記してみたいと思います、
 今日は、その一回目として、森川雅美氏を代表とする方々のホームページ、「詩歌梁山泊」にお邪魔して、その中の、2012年11月16日付けの記事、「短歌時評」の第77回の中から、なみの亜子歌集『バード・バード』(砂子屋書房)に関わる論評記事を読ませていただきました。
 件の記事の著者は、田村元氏とのことでありますが、大変失礼ながら、それを以下に転載させていただき乍ら、それに対する私の感想や意見などを記させていただきます。

投稿日:2012年11月16日 カテゴリー:短歌時評(週更新)

 『元気がもらえる歌集』  11月にもなると、だんだん年間回顧モードになってくる。なんと言っても、今年は歌集が充実した1年だった。私のこの時評の担当は、今回を含めてあと2回なので、いいと思った歌集をできるだけ紹介していきたい。
 今年の歌集を振り返るに当たって、様々な切り口があると思うが、今回は「元気がもらえる歌集」というタイトルにした。優れた歌集の発行が相次ぎ、各地で学生短歌会が盛り上がりを見せるなど、短歌界は実に活気に満ちた1年だったように見える。一方で、一旦、歌集や短歌雑誌から目を上げて、政治、経済、社会を眺め回してみると、なかなか先行きの見えない問題ばかりが山積みなのである。そんな中、人々の思いは、どうしても暗く、はかない方向に傾きがちなのではないだろうか。そんな今だからこそ、読んで元気がもらえる歌集というのは、とても大切だと思うのである。
 一冊目は、なみの亜子歌集『バード・バード』(砂子屋書房)である。

   野の山葵三ッ葉の浸しに飽きる頃にょんと伸びくるすかんぽがある
   なんだってこんなに死んだり生きたり山林に踏みつけてゆく腐葉土の嵩
   しとしとのぴっちゃんな女が雨漏りの下に書きゆく葉書のひとつ
   糠みそよう混ぜといて、と電話していつもの面子と夜の更けまで

 吉野の山中の暮らしを詠った、なみの亜子の第三歌集。定型から何かが溢れ出てくるような強い印象を受けた一冊だ。
 溢れ出てくるのは、一つには、豊かな自然のエネルギーだろう。例えば、一首目は、うっかり人間に食べられてしまった「すかんぽ」を詠んでいるが、「にょん」というユーモアのある擬音で伸びてくる「すかんぽ」には、自然と人間との境界線を自然のほうから踏み越えてくるような勢いを感じる。二首目で詠われているのは、「死んだり生きたり」を繰り返す自然の圧倒的な存在感であり、足下の腐葉土には、その自然の営みが幾重にも凝縮されているのである。
 三首目は、誰かに向けた葉書を書いている場面なのだが、「しとしとのぴっちゃんな女」というところが、水のしたたるような瑞々しさと同時に、どこかしおらしさを演出するようなユーモアを感じさせて楽しい。四首目は、家族に糠みその面倒を任せて、いつもの仲間と夜更けまで飲むという場面だろう。山中の暮らしと言っても、決して隠者のようなものではなく、堅苦しくならない、自然体の生き方が伝わってくる。こんな歌を読むと、歌から溢れ出てくる作者自身のエネルギーのようなものを感じたりもするのだ。
 かなり破調の歌が多い歌集で、言葉自体も定型を溢れ出しているのだが、歌は独特のリズムや声調を保ちつつ、常にエネルギーで漲っている。読み終えるころには、読者の内側にも、歌から伝わったエネルギーが湧き上がってくることだろう。
           (以下、省略)

 なみの亜子氏の歌集『バードバード』を、「元気のもらえる歌集」の一つとして論評した点に就いては、昨今流行りの「元気のもらえる」という、俗耳に入り易い言い方もさることながら、歌集全体を読み通した時の私の印象からしても、やや無理があると申し上げざるを得ないのであるが、その論評内容には、私としても同感できる点が多い。
 然し乍ら、引用作品、一首目「野の山葵三ッ葉の浸しに飽きる頃にょんと伸びくるすかんぽがある」に就いての論評の中の一部に、明らかに筆者が若年者であるが故の、経験不足であるが故の誤りがあるので、この機会を通じて、その点に就いて述べておきたい。
 件の「筆者が若年者であるが故の、経験不足であるが故の誤り」と、私が指摘させていただきたいのは、「一首目は、うっかり人間に食べられてしまった『』すかんぽ』を詠んでいるが、『にょん』というユーモアのある擬音で伸びてくる『すかんぽ』には、自然と人間との境界線を自然のほうから踏み越えてくるような勢いを感じる」という点である。
 この論評の筆者の田村元氏は、私よりは、かなり若い方のように思われますから、お分かりになっていないかも知れませんが、作中の「すかんぽ」は、「うっかり人間に食べられてしまった」のではなくて、引用作品の文脈からも確実に読み取れる如く、作中主体(=作者)たち、吉野の山奥の村人たちが、山菜料理の「野の葵三ッ葉の浸し」に「飽きる頃」を見計らったようにして、「にょんと伸びくる」山菜であり、この「すかんぽ」もまた、食味をそそる山菜の一つとして、村人たちに採られて食べられるに違いない山野草なのである。
 かく申す私は、首都圏暮らしが半世紀以上に亘っているから、北東北の田舎暮らしをしていた頃とは異なって、今では、「すかんぽ」を山菜として食する習慣を失ってはいるが、この素朴な味の野草を題材にした短歌の秀作、「葬り道すかんぼの華ほほけつつ葬り道べに散りにけらずや」が、斎藤茂吉初期の連作『死に給ふ母』の中の一首であることは、田村元氏もご存じでありましょうが、この連作の中に「すかんぽ」が登場してくるのは、この野草を作者の茂吉が少年時代に食べていたからなのである。
 


今週の「朝日俳壇」より(2018/4/22掲載)

〇 輪郭のみな失せてゆく朧の夜 (小樽市)遠藤嶺子

 稲畑汀子選首席。
季語は<朧>、「大気が水蒸気を含んで、万物がぼんやりと見える様子」を指して謂う。<朧夜><朧月><朧月夜>などは、派生して遣われる春の季語である。
 作者が小樽市にお住まいであることを考慮すると、この「朧」は春霞が立ち込めての朧ではなくて、海霧が発生したことに因って生じた<朧>乃至は<朧の夜>であったのかも知れません。
 それはそれとして、昼間は、それなりに輪郭が見えていた風景も、暮方になると、徐々に輪郭を失ってゆき、やがて、闇の中に沈んでゆくのでありましょう。


〇 花仰ぎ仰ぎはなれてしまひたる (岩倉市)村瀬みさを

 同選、九席。
 初五から中七に亘る「仰ぎ仰ぎ」のリフレーンが効いている。


〇 チューリップ五列写生の子は二列 (福岡市)松尾康乃

 同選、末席の一句ながら、作者の観察眼の鋭さが素晴らしい。


〇 どうしょうもない僕にも花吹雪

 造物主の恩寵である「花吹雪」は、人を選びません。
長谷川櫂選の首席。


〇 花の奥水の奥へと鯉の影 (我孫子市)森住昌弘

 初五の「花の奥」は、川面に浮んだ「花筏の奥」であるとも思われるが、恐らくは、川の両岸に桜並木が続いていて、句中の「鯉」は、その桜並木の奥へ奥へと泳いでいったのでありましょう。
 同選の二席。


〇 悪戦苦闘のただなかに柏餅 (宮崎市)熊瀬川貴晶

 何が故の「悪戦苦闘」なのかは解りませんが、その最中の差し入れの「柏餅」は、真に有り難し。


〇 老骨と浮ぶ花弁や露天風呂 (河内長野市)西森正治

 選りも選って、「老骨」ななんかと「浮ぶ」とは、何と要領の悪い「花弁」なんでしょう。
 同選の十席。


〇 羊頭の自由と民主霾れり (川崎市)多田敬

 作者には、まさか、先般旗揚げしたばかりの<立憲民主党>の悪口を言おうという気持ちはありませんよね?
 「霾れり」、あれは今更どうにもなりません。あれは中国大陸からの我が国への貢ぎ物ですから。
 同選の十二席。


〇 達治忌へ桜前線到達す (胎内市)今村克治

 「達治忌」は四月五日。
 詩人の三好達治は、1964(昭和39)年の四月五日にご逝去。
 今年は、桜前線のスピードが速かったから、雪国新潟の胎内市に於いても、四月五日の達治忌に追いついたのでありましょう。
 大串章選二席。
   
 あはれ花びらながれ
 をみなごに花びらながれ
 をみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音あしおと空にながれ
 をりふしに瞳ひとみをあげて
 翳かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍いらかみどりにうるほひ
 廂々ひさしびさしに
 風鐸ふうたくのすがたしづかなれば
 ひとりなる
 わが身の影をあゆまする甃のうへ

   「甃のうへ」 (三好達治作『測量船』より)


〇 補助輪の取れし子桜咲きにけり (大田原市)森加名恵

 「めでたし、めでたし」とだけ言わせていただきます。
 同選の十席。
 




   

今週の「朝日歌壇」より(2018/4/22掲載)

〇 器具回収係の生徒飛ぶ槍を仰いで走る花曇りの空 (鎌倉市)半場保子

 それほど広くもない高校のグランドなどで、投擲競技の練習をしている.場面に出会ったことがあった。
 その周りのトラックでは、短距離競技の選手と思われる女子高生が、ただまっしぐらに前方だけを見て、走っていたので、これでは、いつ事故が起きても不思議ではない、危険極まりないという思いに囚われたことであった。
 本作に詠まれた場面も、おそらくは、正式な陸上競技大会の場面ではなくて、在籍校のグランドなどで行われた練習場面でありましょう。
 しかしながら、その練習に関わっている顧問教師や陸上競技部員が、私が危惧した、前述の如き<危険>をあらかじめ承知していたと思われ、当日は、補欠部員などを「器具回収係」としてグランドに配置していたのでありましょう。
 さて、県大会はおろか、国体やインターハイなどの全国大会に出場しても大活躍するだろうと思われる、その高校の槍投げエース選手が、晴れ渡った大空を目掛けて槍を投じる。
 彼、件の高校の槍投げのエースは、両腕むきむきの筋肉マンである。
 彼が彼自身の右手に握りしめた槍を大空の彼方に投じるや否や、それまでグランドの片隅にいて待ち構えていた彼ら、器具回収係の生徒は、槍が着地点を目指して彷徨っている「花曇りの大空」を一瞬仰ぎ、その後、すぐさま、予測される着地点を目掛けて走り出すのである。
 日常的に行われている高校のクラブ活動の一環としての槍投げの練習風景の中から、ほんの一瞬間だけ昂揚する場面を捉えて、五七五七七の短歌形式に表現した、本作の作者の優れた観察眼と表現力は、高く評価されましょう。
 高野公彦選三席として掲載された作品ではあるが、本日、掲載された四十首中の白眉と思われる。


〇 奉仕する職を離れて明日から私は私専属の司書 (佐渡市)藍原秋子

 財政が豊かでない市町村などでは、公立図書館の司書職員を、給料が支払われる地方公務員として雇用せずに、交通費程度の報酬を支払う、ボランティアとして雇い、司書の職務に当たらせている、という話を耳にしたことがあるが、他人から聴いた、その噂に依ると、そうした場合のボランティア司書募集の場合でも、この景気のいい最中(?)にも関わらず、募集人員に数倍する応募者が試験会場に押し掛ける、という。
 こと程左様に、我が国に於いては、司書資格を持っている者(特に女性)が多くいるし、また、図書館に居て蔵書の選択や読書相談などの任務にあたる、「司書」という職務は魅力的な職務なのでありましょうか?
 本作は、そのボランティア「司書」という立場や職務が、俗世間の噂とは異なり、単なる<無給雑務者>でしかない、事を証している作品でありましょうか?
 題材と発想が優れた作品である。
 高野公彦選六席入選作である。


〇 森友・加計があれども支持率四十で何か怖いなこんな日本  (徳島県)一宮一郎

 高野公彦選七席入選作であるが、私・鳥羽散歩も、本入選作の作者・一宮一郎氏と全く同感です。


〇 五十回同じ答えを繰り返し倦まざる者を能吏と呼べり (水戸市)中原千絵子

 およそ人間としての品位もプライドも無く、平然として答えていた、彼のあの卑怯極まりない回答の数を、よく飽きずに数えましたね。
 私・鳥羽散歩も本作の作者と全く同じ思いに囚われながら、あの国会中継を視ていました。
 永田和弘選四席。

   

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