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詩歌句誌面

読解なくして論評あらず。

今日の一首(11月30日)

〇  枇杷の実の貧乏くさき実が成れる路地を曲がれば葬式に遭う  永田和宏

 『饗庭』所収。
 詠い出しで「枇杷の実」と言い、二句目と三句目に跨って更に「貧乏くさき」という必ずしも誉め言葉ではない形容詞付きで、その枇杷の「実」を強調している。
 この「(枇杷の)実」の重出には如何なる意図があるのだろうか?
 作中主体(=作者)の胸中には、枇杷というバラ科の常緑高木に成る果実としての「枇杷の実」に対する理想像が在るのであり、亦、それと同時に、それとは真逆な「枇杷の実」、即ち、作者の身の回りに在る狭苦しい住宅の庭やどぶ川の土手などに生えている枇杷の木に実る「枇杷の実」も在るのでありましょう。
 前者の「枇杷の実」は、著名な歌人・永田和宏先生宛てに、お弟子さんなどから、毎年、毎年、送られて来るような「枇杷の実」、即ち、その一粒一粒が光り輝く宝石のような「枇杷の実」であるのに対して、後者のそれは、その理想とは隔絶した「枇杷の実」、つまり、お腹を空かしていた少年時代の永田和宏ならば、或いは盗み食いしたかも知れないが、仮にそうしたとしても、不味くて不味くて食べられないような「枇杷の実」、即ち「貧乏くさき枇杷の実」なのである。
 その日、彼は何かの用事で外出しようとして我が家を出たのであるが、バス停への近道である、路地裏通りを歩いていたところ、不覚にも、とある貧しい民家の軒下に生えている枇杷の木にしがみ付く様にしてぶら下がっている件の「貧乏くさき枇杷の実」を目にしてしまったのである。
 その貧乏くさき枇杷の実を目にしてしまった一瞬、彼は、「ああ、ついうっかり骨惜しみをして、近道をしようとしたばっかりに、私という人間は、こんなつならない物を見てしまった!まだバス停へも着かないのに、こんな嫌な物を目にしてしまったからには、今日一日、私は碌な目に合わないぞ!ああ、嫌だ!嫌だ!私は、つまらない場面で骨惜しみをする自分という人間がつくづく嫌になってしまった!」などと思い、「幸いなことに女房も留守だし、いっそのこと、今日は外出を止めて家に引き返し、屋根裏部屋で昼寝でもして、鬼の居ぬ間の命の洗濯でもしていようかな!」などとも思ったのであったが、いくら何でも、そうする訳にも行かなかったので、路地を曲がってバス停通りに出ようとしたところ、案の定、「葬式」の霊柩車に出会ってしまったのでありました!
 彼・永田和宏は、日頃から人間の生命に関わる仕事に従事し、人や動物の死体を目にする機会が多かった所為なのかも知れませんが、葬式や霊柩車などに、人並み以上の関心を寄せていたものと推測され、本作を収めている、彼の第六歌集『饗庭』には、次のような、それ関連の作品が納められているのである。

    ①  夏井戸のめぐりの猛き雑草を刈れる人あり誰か死にしか      (「草井戸」)
    ②  レンタカーに無きものひとつ霊柩車その内側をわれはまだ見ず  (「レンズ雲」)
    ③  喪の幕を張りめぐらせる路地の口幕越えて桜の花枝は垂る    (「春の喪」)
    ④  若き笑顔に頭を下げて出でくれば花は不意打ち 春の喪の家
    ⑤  缶ビール片手に朝のピザを焼けりパジリコを振るは焼香のかたち (「蛤御門」)
    ⑥  死者のため小さき窓は作られて棺は斜めに運びこまるる      (「行きどまり」)

 ①  私の乏しい見聞に照らして言うと、子供の頃、葬式を出す家は、必ずと言ってもいい程の確率で、その家の親戚の者か誰かが、家の周りを浄めると言う名目で清掃をしたものである。昔の田舎の家ではその家専用の井戸を屋敷内や屋敷に近い区域に設えていたものであるが、夏ともなると、その周囲には、雑草が鬱蒼と茂るから、葬家としては草刈りをせざるを得ないのである。また、井戸というものは、その家の先祖の魂が宿る場所、即ち、結界と看做される場合が多いので、特に念入りに掃除をしなければならないのである。
 ところで、そうした清掃に当る者に就いてであるが、その清掃に当る者が、例えば、その家の娘婿であったとするならば、彼は葬家の娘婿の中で、いちばん格下の娘婿扱いをされている者であったりする。何を基準として格上とか格下とかを判断するかと言うと、その多くは、複数いる葬家の娘の中で、一番年下の娘を貰っている男性が、一番格下とされる場合が多いが、例外的には、清掃に当る男性の経済力とか家格とかが他の娘婿のそれに比較して低かったりすると、妻の年齢に関わらず、格下扱いされたりもするから、残酷なものである。
 ② レンターカーが、レンタカー屋の貸し出し商品として在るか無いか、などと、これまで私は考えてもみなかったことであるが、言われてみればそうかも知れません。
 ところで、霊柩車をレンタカー屋の貸し出し商品になる事を阻んでいるものは何か?そうせざるを得ない法律が存在するのか?それとも、貸出頻度が低過ぎて、貸し出し商品としての価値が無いからなのか?
 ③ 葬式の時に、葬家の周りに張り巡らす、あの白黒幕は「鯨幕」と言うそうであるが、あの鯨幕を貸し出し商品としている「道具レンタル屋」は存在するのでありましょうか?答、存在する。(実際の葬式に使われる以外に、映画撮影とか芝居とかに使われる場合も多いから、結構、貸出頻度が高いものと思われる。)
 ④ 「パジリコを振るは焼香のかたち」とあるが、言われてみれば確かにそうである。作者・永田和宏氏の、観察眼や発想の鋭さには感服せざるを得ません。
 ⑤ 「棺は斜めに運びこまるる」とは、これ亦、作者の観察眼の鋭さである。

追伸……真夜中に、こんな縁起でも無い記事を書いている者が居て、その者が他ならぬ自分自身である事を自覚する時、私は、私自身の呪われた運命を感じる。
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今日の一首(11月29日)

〇  投げられし檸檬のゆくえ思いつつきょう初夏の聖橋越ゆ   藤田千鶴

 『白へ』所収。

     或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
     君は陽溜りの中へ盗んだ
     檸檬細い手でかざす
     それを暫くみつめた後で
     きれいねと云った後で齧る
     指のすきまから蒼い空に
     金糸雀色の風が舞う
       喰べかけの檸檬聖橋から放る
       快速電車の赤い色がそれとすれ違う
       川面に波紋の拡がり数えたあと
       小さな溜息混じりに振り返り
       捨て去る時には こうして出来るだけ
       遠くへ投げ上げるものよ

     君はスクランブル交差点斜めに
     渡り乍ら不意に涙ぐんで
     まるでこの町は
     青春たちの姥捨山みたいだという
     ねェほらそこにもここにもかつて
     使い棄てられた愛が落ちてる
     時の流れという名の鳩が
     舞い下りてそれをついばんでいる
       喰べかけの夢を聖橋から放る
       各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
       二人の波紋の拡がり数えたあと
       小さな溜息混じりに振り返り
       消え去る時には こうして出来るだけ  
       静かに堕ちてゆくものよ       ( 『檸檬』 作詩・作曲 : さだまさし)


 『檸檬』は、シンガーソングライター・さだまさしがソロ歌手として出した三枚目のアルバム・『私花集(アンソロジィ)』(1978年3月25日発表)に盛られた作品である。
 掲出の一首の詠い出しの八音「投げられし檸檬」とは、さだまさし作詞・作曲の伝説的名歌『檸檬』に登場する、魅力的な不良少女が、「聖橋から」中央線の快速電車を目掛けて放り投げた「喰べかけの檸檬」を指して謂うのでありましょう。
 名歌「檸檬」を収める名盤『私花集(アンソロジィ)』が発表されたのは1978年3月25日のことでありますが、この名歌は、あれから四十年余りの歳月を経た今日に於いても、多くの人々から愛唱され、亦、それに伴って、多くの追随詩歌を生み出しているのである。
 掲出の一首の作者、藤田千鶴さんも亦、さだまさし作詞・作曲の「檸檬」を愛唱し、亦、この名曲の先蹤作品と想定される、梶井基次郎の小説『檸檬』を愛読する、音楽ファン、文学ファンの一人でありましょう。
 掲出の短歌に登場する、「投げられし檸檬の行方思いつつ」、「初夏」のとある一日に「聖橋」を越えて行ったのは、他ならぬ、掲出の一首の作者、藤田千鶴さんでありましょうが、彼女は、この橋を越えて東京復活大聖堂教会、通称「ニコライ堂」のミサに通われたのである、とする私の推測は、必ずしも的外れのものとは思われません。

今日の一首(11月28日)

〇  隣にて小便をする男不意にわが歌の批評を始めたり  永田和宏


 世界的権威の細胞生物学者であり、京都大学名誉教授たる者が!
 その勢力下に、一千名以上の歌詠みを擁する、短歌結社「塔」の前・主宰たる者が!
 掲出の短歌を収めている、歌集『饗庭』をご上梓された後、十数年後の今日、天下に名だたる愛妻にして恐妻たる歌人、河野裕子に先立たれて泣きの涙で暮らしている、歌人・永田和宏氏ともあろう者が、一体全体、真昼間から怖れ憚る事も無く、男性の象徴たる逸物を、警察の許可も貰わずに露出して「小便」などを遣らかしても宜しいものでありましょうか!
 のっけから、真に失礼ながら、私が、永田和宏氏の第六歌集『饗庭』にて本作に接し、先ず真っ先に思ったことは、前述の如き厳粛なる事実に就いてでありました。
 それはそれとして、敵も去る者引っ掻く者、とはよく言ったものであり、その彼の隣で、世界的権威の彼と同様に、ズボンのスアスナーを引き下げるや否や、彼と同様の天下の逸物を抜き出して、あろう事か、「小便」に及んだ強者が居たとは、これまた吃驚仰天である!
 でも、これで驚いていてはいけません!
 何と驚いたことに、彼・世界的権威に対抗する彼の強者は、みずからのライバルたる永田和宏氏の御作の批評を始めたのでありました!
 爾後、事の決着は如何に相成るのでありましょうか!
 その点に就いては、本作の作者ご自身にお聞きしなければ判りません!
 『饗庭』所収。

「永田和宏第六歌集『饗庭』」を読む

            『饗庭』抄      鳥羽散歩選

〇  やはらかき春の雨水の濡らすなき恐竜の歯にほこり浮く見ゆ  (「比叡の肩」)

〇  大いなる伽藍のごとく吊られいる骨の真下を見上げつつ行く

〇  ミイラ並べる地下より出でて夕光の深き角度はやや不安なり

〇  遠り雨過ぎたる坂の石だたみ 無人の坂は立ち上がる気配

〇  土まだら草生まだらに濡れている西より日照雨の脚はやく去る

〇  川端丸太町西岸に来てりかえる比叡の肩に雨雲は垂る

〇  今夜われは鬱のかわうそ 立ち代わり声をかけるな理由を問うな  (「鬱のかわうそ」)

〇  雨雪に左の肩は濡れながらきのうの嘘をなおあたためる

〇  昨夜(きぞ)の夜の酔はぼろぼろ 脈絡の何処に君の笑いいし声
  
〇  馬印の燐寸つらつらかの頃の燐寸の馬は笑っていたか

〇  動物舎の匂い中庭を渡りくる雨近きこの夕べの匂い

〇  あっけなく扶養家族をはずれゆきし昼ねむる息子の眠り山椒魚

〇  がむしゃらにならねばついに到るなき喜びなどと説くさえ空し  (「叱正」)

〇  交差点に擦れ違いたる老教授放心のさまに行く背老いたり  

〇  報告書射ちあぐねいつ対岸に空手部員ら空を蹴る見ゆ

〇  夏井戸のめぐりの猛き雑草を刈れる人あり誰か死にしか  (「草井戸」)

〇  枇杷の実の貧乏くさき実が成れる路地を曲がれば葬式に遭う

〇  行く先を赤く灯せる終バスの曲がりきたるが人の見えずも
  
〇  枯れ蔦の根がびっしりと覆いいる洋館点り脳髄のごとき

〇  目を見ずに話すのは止せ葉桜の美しい季たちまちに過ぐ

〇  茶の花のほのかな気配 遠く在りし人は死ののちにくきやかに顕つ  (「因数分解」)

〇  うつむきて言葉をさがしあぐねいる少女にいっぴきの蚊がまつわれる

〇  声低く兄いもうとが解きいたる真夜の隣室因数分解

〇  水紋のようにしずかにひろごれる夕べかなかな声の濃淡

〇  水鳥の水走る間の蹠のこそばゆからむ笑いたからむ  (「蹠」)

〇  輪郭の緩みきたるという声の吾妻が声の容赦なかりき

〇  つぎつぎに首断ちて肝を剖きゆく少女寡黙なり 夕暮れのラボ

〇  しじみ蝶萩より発ちてたちまちに奥の社殿の丹に紛れにき

〇  枝付きの柿が届けり形わろき不揃いの柿はふるさとの柿

〇  背伸びして蠟梅を嗅ぐもどり来てその人はまた蠟梅に寄る  (「レンズ雲」)

〇  にんげんに窪多きかななかんずくおんなの窪に射す光やさし

〇  茂吉全集の並べる上を住処とし色薄き猫がとろとろ眠る

〇  釣り堀の背はみな猫背扁平の冬のひかりを薄く溜めいつ

〇  レンタカーに無きものひとつ霊柩車その内側をわれはまだ見ず

〇  おぼろなる月の光のみなぎれる晩春の橋 誰か尿(いばり)す  (「屋根裏」)

〇  餌袋を首に掛けたる馬は来て広場中央に大尿せる

〇  屋根裏に電気もつけず読みふかす夕あかり黄色く濁りゆくまで

〇  父親をあだ名で呼べるいまどきの娘といえど楽しきものを

〇  愛宕山巓かすかなる灯のともる見ゆ冬朝空に山近く見ゆ  (「清荒神節分祭」)

〇  電光掲示板みぞれのビルの肩を走る見上げつつサダムに心寄りゆく

〇  清荒神節分祭の赤き幟におびかるるごと橋をまた越ゆ

〇  フロントグラスを雲は流れて昼下り眠る女の顔が見えない  (「たかさぶろう」)

〇  曇天の低く垂れいる空の腹に埋もるるごとく凧は動かず

〇  どのビルも屋上に水を蓄えて淡く浮きおり灯ともし頃を

〇  幸神橋より北を見るとき鴨川の股のあたりを冬時雨過ぐ

〇  隣にて小便をする男不意にわが歌の批評を始めたり

〇  わが歌をときには読みているらしき学生たちのコーヒータイム

〇  眠りいる聴衆の数を目で追いてそろそろ論をまとめにかかる

〇  蠟梅にいささかの雪積みたれば雪の間より蠟梅匂う  (「消えのこる雪」)

〇  大鍋を両手に抱え神官も急げる梅花祭の裏口

〇  雪を得て野ははなやげり川幅を自在に変えつつ野の川は行く

〇  輪郭は雪積みて不意に顕わるる池にひっそり盛りあがる水

〇  葉牡丹かなにかのように街燈の灯の境目に猫ら坐れる

〇  風邪熱にはかなく妻が立ち居する雪にまぶしき朝の厨房

〇  さしあたりひとつ挫折を先に送る脚長き子を危ぶみ目守る

〇  風船のごとく自分のことばかり喋りつづけている女はも

〇  子らの背丈の伸びを刻める屋根裏の小さき扉(ドア)に冬の陽は射す

〇  ほしいままにミモザは窓を覆いたり住まなくなりし家ははかなし  (「銹を流す」)

〇  なにを掛けし釘かは知らず裏木戸の大いなる釘銹を流せる

〇  萍の吹き寄せられている岸に嘆き言いしはなべて忘れき  (「うきくさ」)

〇  時計塔に灯ともり春はようやくに微熱のごとき風を送り来

〇  椿虫の匂いにこの頃敏感となれるわが娘また見つけくる

〇  霧の夜は霧を押しつつ鈍色のヘッドライトが橋を行き交う

〇  葦の火の湖を囲める夜に来て逢いたしされど逢ってどうする

〇  喪の幕を張りめぐらせる路地の口幕越えて桜の花枝は垂る  (「春の喪」)

〇  若き笑顔に頭を下げて出でくれば花は不意打ち 春の喪の家

〇  行く人のあらぬ傾斜に花盈ちて道幅をゆっくり渡りゆく猫

〇  完璧な退屈こそが贅沢とうたえるリゾート案内を閉ず 

〇  あおによし楢茸をしも見いでたる蛤御門はゆうべ暗けれ

〇  どう切っても西瓜は三角にしか切れぬあとどのくらいの家族であろう

〇  朝食の卓にまでどうどうと聞こえ来て息子は尿までいまいましけれ

〇  凌霄花の花をこぼせる塀を過ぐ人生半ばの夏のある朝  (「ウシガエル」)

〇  君を知らぬことのたとえば俯きて寢るときのその乳房の重さ

〇  水の裏より螢は光るいましばらくの家族として草の川岸をのぞく  (「螢の肺」)

〇  つまらなそうに小さき石を蹴りながら橋を渡りてくる妻が見ゆ  (「橋」)

〇  堰落つる水がとらえてはなさざる白きボールの踊れるを見つ

〇  遺跡なればわずかな窪にもうなずきて人ら巡れりロープに添いて

〇  遺伝子を釣るなどと言いて疑わぬわれらの会話は聞かれていたり

〇  死者としてこの橋を渡る日はあるかはみ出して影は川原に落つ

〇  曼殊沙華折り来し指がうすく匂う夕べ電話の受話器とるとき  (「ショウゲンジ」)
   
〇  枕木に打たれし無数の釘の頭の油照りして犬を行かしむ

〇  ショウゲンジつくつくとつくと秋山の日当たる斜面に頭を出せる頃

〇  とにかく、と打ち切るごとく立ちしかば午後の日差しは部屋隅に伸ぶ  (「可坊」)

〇  雨の日は雨打つ音の直截を屋根裏に読む楽しみとする

〇  寝室より妻がしきりに笑う声のとぎれとぎれに雨のこの夜

〇  片手を壁に添わせてゆけばいつか迷路は抜けられるという可坊(べらぼう)な話

〇  アリナミンの黄色き粒の三粒ほど朝朝に妻は我の掌に載す

〇  窓に凭り向いの席に本を読む君を恋人の頃の名で呼ぶ

〇  人をたのむことなくなりて人にあうことのいくばく楽しくもあるか  (「遺伝子」)

〇  鼻梁とうもっとも脂濃き部分を近づけてなす議論いつまで

〇  遺伝子を切り貼ることも日常の一部となりぬ朝顔の紺

〇  低血圧低体温のゆらゆらと菱沼聖子はまだ学位がとれぬ

〇  水を買い水をぶらさげ炎天の古き中庭(パテイオ)にただ立ちている  (「ゴヤ駅」)

〇  文庫本『帰潮』を読めりマドリッドの濃き影の下石のベンチに

〇  さりげなく視線そらせてすれ違う日本人は日本人の前を

〇  ゴヤ駅とベラスケス駅が隣りあえるダリ駅ピカソ駅はいまだあらずも

〇  美人はもうつくづく見飽きたと思いながらマドリッド夕べの雑踏にいる

〇  夜の淵にはるかに君も見ていんか有森裕子抜き去られたり

〇  唐津へと向かう電車に読み終る『惜身命』は初冬のしぐれ  (「唐津・その他」)

〇  学会を抜けて着きたるこの町は茂吉の飯の故に親しも

〇  みどりの火小さく灰の中に立つなに燃えのこる秋の夕暮れ

〇  眼(まなこ)のみ生きてみひらくわかるかと問えば眼をまたたきにけり  (「老人病院」)

〇  「おしめを替えますから」と言う声を救いのごとく部屋抜けて来し  

〇  はじめての雪は比叡に薄く積みすでに去就はわがものならず  (「去就」)

〇  ほかにどんな生き方ができるかと橋半ばまで来て見上げたり

〇  寒の夜に歌選びおり蒲団かぶり手をあぶる定家の猫背は見ゆる

〇  悩むひと定家を愛す歯の痛みこらえて御所の辻を曲がれり

〇  春の川ふたつ出会えり川上の染め屋の紺は片流れせる

〇  廃村八丁 朽ちたる家の土間暗くオルガンありき蓋開きしまま  (「廃村八丁」)

〇  村人らの村捨てしのち幾たびの夜半を鳴りしか柱時計は

〇  百葉箱は朽ちつつ立てり明るすぎる光のなかに村は滅びて

〇  わが見付けわが名付けたる遺伝子をもてるマウスを手の窪に載す  (「雨舌」)

〇  女偏の文字ひしひしと並ぶごと北陰に咲くどくだみの花  (「ヴィーナスの腕」)

〇  水無月の空低きより垂れているまぶたのごとき雲を見ている

〇  失われたる腕を語りて語りやまぬポンティオ・ピラトにやや似し男

〇  スズメ刺しより穴ぐま狙い何のことかわからぬままに棋譜を辿れる

〇  あさひさくらとまともありてなかんずくびわこ銀行その先の角

〇  教科書の線右頬に刻まれて娘は熱き湯をかぶりにゆけり

〇  旧仮名のをんなといえる風情にて日傘が橋をわたりくるなり  (「いさなとり」)

〇  鼻長きバスはいずこに行くならん乗客わずか皆眠りおり

〇  性愛をめぐりさびしく諍えり窓には夜の沼ひろがれる

〇  凌霄花は塀より下がり自意識にがんじがらめの人をさびしむ

〇  楽しみのために歌集を読むことのこんなに少なくなりし日の暮れ

〇  ばかばなしばかりして来し野の道はふた別れしてともに夕暮れ  (「莎草」)

〇  硝子戸のむこうシャワーを浴びている柔らかき背よ月は上るか

〇  きのうより小さき嘘がくるぶしを咬みおり咬んでいるゆえ愉し

〇  鼓膜をひっぱりだそうとでもするような熊蟬の声朝よりつづく

〇  千年の昼寝のあとの夕風に座敷よぎりてゆく銀やんま  (「雨水瞑目」)

〇  空き瓶のひとつひとつに陽が射して退屈は人を酷薄に見す

〇  鞍馬街道くもりの午後を鬱々と来れば生木を挽く香ただよう

〇  葉ざくらの雨の桜の幹黒しあきらめて身軽になれという声

〇  洗面器に顔浸しおりへこみたる顔の形の水となじみて

〇  百年の恋も冷めると笑われて抜きそこないし鼻毛の痛さ

〇  長崎大学医学部を出て歩きゆく爆心までの曇天の坂

〇  コインランドリー真夜を点しつ青年が読みつつ時にひとり笑いす 

〇  ぼろぼろの表紙の裏につつましく旧姓はありぬ茶の英和辞書  (「旧姓」)

〇  うずうずと中島みゆきに溺れいる午後をこんなにもてあましつつ

〇  うさを晴らすために外に出て呑むというそんな優雅な生活もあるか

〇  飛び出してゆきたる息子飛び出して行きたいわれが背後より怒鳴る

〇  若さゆえの息苦しさか行く先も告げず息子が夜を出かけゆく

〇  あきらめて優しくわれはあるものをやさしくあれば人はやすらう

〇  つづまりは性にかかわる行き違い触れざるは思わざるというにあらねど

〇  まっすぐに背筋を立てよ立ていよと疲れしわれをわれは励ます

〇  少しずつ空をせばめてゆりの木の芽ぶきさみどり窓際を占む

〇  木漏れ日に茂吉確かに笑いたり胸像の丸き眼鏡のあたり  (「茂吉」)

〇  馬を飼う匂いながるる辻を過ぎ茂吉生家はもうこの辺り

〇  雪を踏みて歌碑をたどれり茂吉の見し蔵王の角度を確かめながら

〇  小さき女性の足跡ひとつまっすぐに茂吉の墓に行きて戻れる

〇  わが生れしその日茂吉は狼石におきな草など描いていたり

〇  裸木の桜の枝にほのかなる紅刷くほどの春は来にけり

〇  小さき耳に小さき穴をあけきたる妻はかなしも厨に立てば 

〇  夕暮れの水のおもてを滑りゆくひとに告ぐれば嘆きたるのみ

〇  送られて出づる甃(いしみち)春の夜の祇園の坂は光に濡るる

〇  抱く腕のなかにしだいに繭となるかなしき夢よ汝を知りてのち  (「春愁」)

〇  水の面を濡らししずかに滑りゆく春のあかるき雨をよろこぶ

〇  沼のようなぼんやりとした睡魔なり人事に関わる会議続ける        
  
〇  磨硝子のむこうにひっそり湯を浴びる妻には妻の言い分があり 

〇  地下鉄の長き階段に深く陽は射して枯野の匂いただよいはじむ  (「土踏まず」)

〇  土踏まずすこし湿らせ立ちているながき弁解にうなづきながら

〇  上京は水打たれたる石畳明かり乏しき路地を辿れる  (「蛤御門」)

〇  鴨川はまた風の川、立ちつづく四条大橋風中の僧

〇  柳馬場をまっすぐ北へ突き当たれ闇の牝牛のような御所まで

〇  蛤御門のうちにかすかに点れるはあれはあれ機動隊員のくわえ煙草

〇  法然院の裏道にして靄のごとく剃りあと若き僧すれ違う

〇  焚火の熱を背中に溜めて立ちいたり言えば言葉はどれもみな嘘

〇  感情の起伏を鞣めしつつ家族のような顔をしていつ

〇  缶ビール片手に朝のヒザを焼けりパジリコを振るは焼香のかたち

〇  水の面を裏より舐むる魚を見上ぐ雨寒き日の水族館に来て

〇  われかつてこのように抱かれしことなし恍惚と死に溺るるイエス  (「行きどまり」)

〇  羨ましければかすか憎悪の兆せるをヴァチカンの闇に浮きたつピエタ  

〇  その母を嘆かすることなきわが死などもうとうにつまらなし

〇  油のような妬ましさもて立ち尽くす人頭はるかに抱かるるイエス

〇  午後の光に見る乳房こそかなしけれ硝子を押して夏嵐過ぐ

〇  焦るごと性愛を想う廃駅のホームを割りて咲くきりん草

〇  右京よりひと訪ね来し右京には今日かすかなる紺のかざはな

〇  水雪を跳ねつつ車の行きしのち橋はあかるき翳に沈めり

〇  もう一軒つき合えと言う月光の石塀小路、角のつわぶき

〇  たれもたれも同じ裸身を包みつつ西陽影濃き車内に眠る

〇  行きどまりはもうそこに見えている春、鷹ケ峰漆黒の坂

〇  みずすまし池を抱くかと腹這いに見ておれどまだ三月のはじめ  (「マンホール」)

〇  よるべなくマンホールの上に立っているようにエレベーターに運ばれていくゆく

〇  乳鉢や天秤のありし頃のとろりとやわらかき夕日をさがす  (「記憶領」)

〇  小さき脳をスライスにして染めているこの学生は茂吉を知らぬ

〇  記憶量海馬(ヒポキャンパス)は染められてすみれ色濃き脳中枢部

〇  液体窒素に蔵いおくべく胎児の細胞にわが釣りし遺伝子を導入す

〇  牛乳瓶をならべて小さき蠅を飼う初夏少女の汗光りつつ

〇  なめらかに誉めあげて短く締めくくる推薦状の季節鬱々

〇  渡りくる人なき橋は日に灼けて地蔵も灼けて眼鼻もあらぬ

〇  水面に一本の浮子立ちており墓原に墓の鎮もれるごと

〇  昼顔の花巻きのぼる 病院に中庭ありてリヤカーは銹ぶ  (「昼顔」)

〇  権兵衛橋源助橋を過ぎて来よ目無し地蔵のすこし上流

〇  夏の終りは喪の家多し葬列という列行きしことなき街路

〇  影を脱いでしまったきりんはゆうぐれの水辺のようにしずかに歩む  (「ねむいねむい」)

〇  美術館の夜の中庭に月みちてデルヴォーの裸女歩きはじむる

〇  エレベーターに乗り合わせたる一組の男女が背後に螢光始む

〇  男山八幡にエジソンの碑の立つは鱧と水仙ほどにも奇妙

〇  沼と岸のけじめもあらぬゆうぐれの水辺というはただしんとして  (「水辺」)

〇  草の上にはかなく光はとどまれり不意に泣く顔の笑えるに似て

〇  引き込み線は雑草なかを草隠りゆけり昨日のこだわりはまだ

〇  船岡山より見れば手に手に火をかかげ夜盗走りし道かこの道

〇  市庁舎の天井高し都市計画課河川掛りに扇風機まわる  (「島の猫」)

〇  夕暮れの把手(ノブ)ははつかに濁りいつ<どこでも扉(ドア)>などどこにもあらぬ

〇  しゃぼんだま街に流るるひらがなのひとつふたつと消えゆくように

〇  老人と猫とこもごも眠たくて島の広場の影に寄り合う

〇  とろとろと島の猫らが溶けてゆく昼下り老婆は迅うに燃えいつ

〇  昼暗きガラス工房に男らは練り飴のようなガラスを吹けり

〇  寡黙なる性器のごとし、イスラムの波打ち際にひたひたと塔

〇  雪汚れ残れる湖北姉持たぬことを不思議と思わず過ごしき

〇  歳月の淀みに人を忘れつつ象皮のごとき夕暮れは来る

〇  夕暮れにしか目立たぬものを思いおりすこし前ならば火の見櫓なども

〇  老眼鏡をゆっくりとかけるこの感じがとりあえずいまは好きなのである

〇  家族の犠牲になつているという不満妻にありて薬湯のさみどりに首まで浸る

〇  左京より若狭に抜ける峠路のなつかしき名のいくつを越える  (「空を刷く雲」)

〇  薄き陽が紅葉の山に射すときにもぞもぞ山はかゆがりている

〇  せつなさは不意に襲いて池底の鯉の口より出入りする砂

〇  湿球と乾球の差のはろばろと戦後と呼べる日だまりありき

〇  鞠小路を猫横切れり仁丹のかの制服の兵士のゆくえ

〇  わき水を汲まんと来たり峠より花背へつづく芒たてがみ
  
〇  雨の日に電話かけくるな雨の日の電話は焚火のようにさびしい  (「脳の扉」)

〇  父としてもうしばらくはつきあわん絵馬吊るし来て娘ははにかめる

〇  自意識は芙蓉のごとく緩むなり鳰の海わがふるさとの湖

〇  ヘルメットのなかに短く返事して街に出会えり子は早く去る

〇  まずひとり抜けし息子が用もなき電話かけくる向こう側のジャズ

〇  カーペンターズ流るる夜のやさしさは兄去りし部屋を娘が灯しおく

〇  三角定規ふたつ重なり置かれある机上ほのかに夕べの翳り  

〇  やわらかき気配のみ降る春の雨つげ義春の若書きを読む (「百足屋質店」) 

〇  上の句がまだ見つからぬ春の雨百足屋質店の看板濡るる  

〇  酔っていることのみ告げて切れしかば夜の受話器はとろりと重い

参考文献

「『聖戦の詔勅を拝して』(短歌研究・昭和十七年一月号)」より(参考文献)

宣戦の詔勅を拝して 「短歌研究」(昭和十七年一月號)

北原白秋
 天にして雲うちひらく朝日かげ真澄み晴れたるこの朗ら見よ
 おぼほさむ戦ならずしかもなほ今既にして神怒り下りぬ
 事しありて死なまく我ら一億の定あきらなり将た生きむとす
 長き時堪へに堪へつと神にしてかく嘆かすか暗く坐しつと

吉井勇
 大詔いまか下りぬみたみわれ感極まりて泣くべく思ほゆ
 大詔聴きつつ思ふいまぞわれら大君のために死ぬべかりけれ
 勝たむ勝たむかならず勝たむかくおもひ微臣のわれも拳握るも

岡麓
 敵国の沈まぬ艦とほこれりし艦を沈めつ正に勇悍(たけし)や
 大御稜威かしこくもあるか戦争は必勝つにさだまりにけり

川田順
 厳粛(おごそか)にいくさを宣らすみことのり独り坐りて吾が捧げ読む
 たたかひの大みことのり降りたる即日敵の艦(ふね)爆ぜ沈む
 天地に寒さの浄く凝る時し大東亜戦宣らせ給へり

尾山篤二郎
 暉ける月日と倶に大御稜威海坂越えて照りわたらふよ
 天地のむたと言ひ嗣ぎきたりたる彊るところ無き御光や

土岐善麿
 撃てと宣らす大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に
 ルーズヴェルト大統領を新しき世界の面前に撃ちのめすべし
 横暴アメリカ老獪のイギリスあはれあはれ生恥さらす時は来向ふ

相馬御風
 おほみことつひにくだりぬかむつるぎつひにくだりぬしこがかうべに
 あじあの敵人類の敵英米を今こそうてと神宣らしたり
 神にます君のみことをかしこみて捧ぐるいのち豈死なめやも

与謝野晶子
 強きかな天を恐れず地に恥ぢぬ戦をすなるますらたけをは
 子がのれるみ戦船のおとなひを待つにもあらず武運あれかし
 み軍の詔書の前に涙落つ代は酷寒に入る師走にて

石榑千亦
 天地の神もきこしめせ世の為にみはかしとらす大みことのり
 太平洋の波天をうつとも踏み破る日本男児の鋭心ぞこれ

窪田空穂
 空中魚雷もちて母艦を離るるは我ならずやと心亢ぶる
 皇国の海軍を見よ世界いま文化の基準あらためぬべき

齋藤茂吉
 絶待に勇猛捨身の攻撃を感謝するときに吾はひれ伏す
 大きみの統べたまふ陸軍海軍を無畏の軍とひたぶるおもふ

金子薫園
 皇祖皇宗の神霊上にありとかしこし厳かに秋霜の如く
 大詔を宣明する東条首相の全身は声になりてひびく

松村英一
 髪あかくまなこの碧き異つ国撃ちて浄めな攘ひ和さな
 明らかに神の見給ふたたかひに邪曲はなし敵を討つべし

半田良平
 畏きや天の岩戸よりさしいでし御光に似て御詔勅
 大君の詔勅のまにま飛びたてる機上の兵はすでに神なり
 皇紀二千六百一年を境として世界史は大いなる転換をせむ

金子元臣
 現つ神わが大君の御こころに背きし奴しが面剥がむ
 勝速の勝ちのすすみは靖国の神もい挙り往き助くらし

武島羽衣
 御民われら燃ゆる一つの弾丸となりてうち砕きてむあたの国国
 とこしへの平和のための戦ひを詔らす御言葉は神の御言葉

土屋文明
 東京に天の下知らしめす天皇の大詔に世界は震ふ

佐々木信綱
 大君の大みことのり天にして皇祖の御神うづなひきこさむ
 大勅のまにまに挙る一億を今日こそ知らめアメリカイギリスども

尾上柴舟
 来べきもの来し日の今日ぞ今日よりの我等の路に迷はむものか
 今よりは日本洋と名をかへむ御国のものぞ太平洋は

佐佐木信綱
 大詔かしこみまつり一億の御民の心炎とし燃ゆ
 大君のみことのまにま臣民皆が国に殉ふ時し来れり

釈迢空
 捷報は頻りに頻る。戒めて、この歓びに狎れざらむとす



大詔渙発

高村光太郎
 棒立ちになつた議長は僅かに口を動かして
 午後一時までの開会延期を宣した。
 「それまで静かにお待ち願ひたい」と
 ゆつくりしづかに議長がのべる。
 議場はもうさとつた。
 重大な決意が千余名をしんとさせた。
 歴史的な時間は分秒に音なく、
 午前十一時四十五分、
 ラジオは宣戦布告を報じた。
 午後一時
 恭しく捧げられた詔書が議場に入る。
 議長は少しふるへる手でこれを展げる。
 大詔を拝して議場に箇々の人影なく、
 ただ粛然たる一団の魂があった。
 開会の式は順を逐ふ。
 宣言決議の案文を待つ時
 議場はたちまち熱気に満ちて猛然たり。
 即ち我は此記念の席に坐して此詩を書く。
  昭和十六年十二月八日作。

 此日の感激は昭和に生きた日本人たるものの終生忘れ難いところであらう。
 此日恰も第二回中央強力会議の第一日目にあたり、筆者も各界代表の一人として
 末席に列り、詔書の奉読を聴いて恐懼に堪へず、座席に釘づけとなつたまま、此詩
 を卓上の紙片に書いた。会議の宣言決議文は宮城前にて朗読せられた。

三枝昂之『昭和短歌の精神史』を読む【2】  ~第二部
第二部

1、国難来(きた)る、国難は来(きた)る─歌人たちの大東亜戦争

昭和16年12月8日、日米開戦の日のことが書かれている。その日の歌人ら文学者らの反応。
五歳の小中英之が庭に飛び出して「センソウ、バンザイ!」と叫んだというエピソード。

短歌研究が「宣戦の詔勅を拝して」という特集を組んでいる。そのころの歌を見てみると、短歌は戦争への意欲、士気を高めるための「コピー」のような役割を持っていたんだなと思う。

大きみの統(す)べたまふ陸軍海軍を無畏(むゐ)の軍(いくさ)とひたぶるおもふ/斎藤茂吉

『「短歌研究」の特集に示された心を一言で言えば〈やった!〉である。茂吉にそれがもっとも濃い形で現れている。もう少していねいにまとめれば、米英への憤りと宣戦の詔への感涙、そして初戦の成果への喝采である。』



2、還るうつつは想わねど──学徒たちの戦争

学徒出陣。入営してから吉野昌夫が木俣修に葉書で歌を送り、やりとりしたこと。師弟のよい関係。
『木俣が真摯に受け止め、細やかに指導するから、厳しい日々の中でも吉野の歌作が持続した。そこには打算が介入する余地のない、師弟のうるわしい絆がある。』

武川忠一などが参加した早大短歌会の歌誌「槻の木」のこと。そこに載った敗戦歌が大新聞や有力雑誌とかわらないことについて。
『なぜみんな同じ嘆きになるのか、もっと自分の心理の襞に分け入った表現は出来ないのか、という疑問はあってもいい。しかしながら、彼らの答えは明確なのではないか。他人と違う歌を模索することよりもなによりも、突き上げるような悲嘆をうたうことが大切だった。』




3、幾世し積まば国は栄えむ──歌人たちの敗戦

多くの歌人の敗戦の時の状況が書かれている。

半田良平は戦争で息子を失った。歌や日記にそのことが繰り返し書いてあり、悲痛だ。


若きらが親に先立ち去ぬる世を幾世し積まば国は栄えむ/半田良平



4、草よ繁るな──短歌の中の沖縄戦

ひめゆりの少女たちのこと。仲宗根政善を中心に。

沖縄戦かく戦えりと世の人の知るまで真白なる丘に木よ生えるな草よ繁るな/仲宗根政善

『仲宗根の短歌はすぐれているとは言い難いが、修辞的な優劣だけが歌の価値ではない。短歌だからこそ託すことのできる心の襞があり、そのことを示すことも大切な歌の価値である。』



5、海山の嘆き──歌人たちの八月十五日

昭和二十年八月十四日の夜に、佐佐木信綱に「いよいよ明日は大変なラジオ放送があるから歌を詠んで欲しい」という依頼がくる。玉音放送の前に玉音放送歌がつくられた。


玉音放送への歌人たちの反応。

ざまを見よ、ざまを見よとし罵り歩む東京焦土空に一機なく/近藤芳美



6、彼等皆死せるにあらず──悲歌と慟哭

窪田空穂の長歌「捕虜の死」が読みごたえある。



7、斎藤茂吉日記「八月十四日ヲ忘ルヽナカレ考」

斎藤茂吉の日記の「八月十四日ヲ忘ルヽナカレ」は「十五日」の誤記であるとする考えへの反論。
戦争終結の「聖断」がくだされたのが十四日であること。

「藤田千鶴第二歌集『白へ』」を読む

〇  投げられし檸檬のゆくえ思いつつきょう初夏の聖橋越ゆ

 「投げられし檸檬」とは、さだまさしが歌う「檸檬」のヒロインである、盗癖のある少女が聖橋の上から中央線の快速電車に向かって抛った齧り掛けの檸檬でありましょう。
 あの檸檬は何処へ消えしや?
 私のあの冷たくて酸っぱい檸檬は!
 行方知らずの檸檬よ!


〇  門灯のともらぬ家に帰り来てただいまと言いおかえりと言う

 「ただいま」と言っても、「おかえり」と応えてくれる者のいない寂しさ!
 門灯のともらぬ家に帰って来ることの侘しさよ!


〇  ねむりつつこの世にやってきたようなスノードロップひとつ咲きたり
〇  触れられぬ白さ哀しきスノードロップ最後の冬の坂田博義
〇  白き闇赤き闇ありて世を去りし坂田博義、フランシーヌ・ルコント

 私は既に終活記を迎えて、断捨離に専念している高齢者であるから、最盛期には手狭な書庫に数万冊を積み上げた書籍の殆どを処分してしまいましたが、残り少ない数冊の中の一冊が「坂田博義歌集」(塔叢書第十篇・1974年11月20日発行・川添英一編)である。彼・坂田博義こそは、まさしく「触れられぬ白さ哀しき」を秘めた「スノードロップ」のような人であり、「白き闇赤き闇ありて世を去りし」歌人であったに違いありません。
     急坂を下るブレーキ火花が一瞬夜気にひらめく        (「凍土」より)
     別るべき決意まだなく月のごと笑む人の顔ま直に見得ず
     リラの花靄たつ池に散りこぼる淡々として淋しかりけり
     荒塩を舐りてほゆる大牛の愚鈍なまでの動作を憎む
     敗北の意識たゆとう冬の日は凍土に淡き影さえもなく
     コスモスの未熟な種を手に受けぬ貧しき我等この種に似つ   (「埠頭」より)
     自虐などかつてなさざる我にして枯木の森の果てを見にゆく
     電球と枯れたる花とが寄りあいてしばしを流る渦多き川
     経てきたる悔しさやめり風塵にアカシヤの花白々と落つ
     窓ごとに金色の公孫樹見えていて善意のみなる我になりいし   (「無言歌」)
     今生は浄められずと知りたらん白鳥は昏き沼を捨てにき
     紫の花房さがる藤棚の下まぶしくて目を伏せにけり
     黒々と雨に濡れたる夜の広場吾は偸盗のごとくよぎりつ
     薄雪の降りし街路にアセチレンなげきのごとく灯し蟹売る   (「廃線」)
     四階の窓より常に見えいしはこの塔なりとたしかめて去る
     小刀もて目をつぶしては闇にのみ安らぐ鰕を生簀に放つ
     あばきたる鶏の胎に輝きて未成熟卵つらなる昏さ
     球根が水におろせる白き根よかく優しくて光にそむく
 
 以上、私の冷酷な断捨離眼から逃れ得た、歌集『坂田博義歌集』より作品数首を抜粋して、ここに転載させていただきました。
 振り返ってみますと、彼が京都市東洞院の寄宿先にて縊死されたのは、1961年11月28日のことでした。間も無く、彼の五十数回目の命日が遣って参ります。(南無阿弥陀仏)

     
〇  伸びしろは半年たっても伸びしろのままに試験はつぎの土曜日

 「伸びしろは半年たっても伸びしろのまま」とは、よく言ったものである!
 して、既に傘寿に達した、私のの伸びしろは如何ほどならんや?
 

〇  乗車するひとはなくてもドアを開け暗い車内をみせて立ち去る

 首都圏内を走る、JR線の場合でも、月曜日の昼間などは、時々そうした場面に出くわしたりします。


〇  書きかけの線路を歩いて駅へゆくきのうの子らのまだ眠る朝

 子供たちが団地の路面などに描く線路は、たいてい未完成のままである。
 かつて腰痛で苦しんでいた頃、私はこうした線路伝いにある病院のリハビリ科に通いましたが、ただの一度として脱線しなかったことはありませんでした。

〇  覇気のない犬がぼんやりそこにいて人が通ると必ず吠えた
〇  とりあえず噛むには噛んだがというような戸惑いありき犬の側にも
〇  メーターを測る女を噛んでから危険な犬と呼ぶ人もいた
〇  一生を繋がれていたガレージに来てくれた雀、ヤモリ、夕焼け
〇  一度だけ犬に噛まれしことありて歯型に破れしジーンズ捨てし  
〇  検針ですと明るく言いて踏み込んだあれほど綱が長いと知らずに
〇  死んだ犬の記憶はいつも温かい死んだときからちろちろとして
〇  ふたつの手あわせて作る犬の影角度を変えると遠吠えもする

 たった一度だけ、検針員の小母さんの尻を噛んだことがあるだけで噛み癖のある犬として近所の人々から嫌われ、孤独のままに狭い犬小屋で死んでしまった気弱で哀れな犬。
 幸いに大きな怪我にはならなかったが、噛まれた検針員の小母さんの過去半生も決して順調であったとは言えないのかも知れない。


〇  叱られて泣き出すまでの静けさの同心円のなかのひぐらし

 「静けさの」の「の」が、比喩の用法(…のような、と訳す)であることに留意しなければならない。
 そろそろ秋風が吹いて来ても不思議でない、ある晩夏の一日、作者はクーラーを止めた部屋の中に居る。彼女を中心として、その周りを同心円状に囲むようにして鬱蒼と木々の茂った庭があり、その庭の木々には、蜩たちが幹にしがみ付くようにして止まっていて、残り少ない命を惜しむかのようにして啼いている。その蜩たちの啼くタイミングは、恰も、叱られた子供が、一瞬の間を置いてから泣き出すような感じなのである。
 一斉に啼き喚いて居た蜩たちが啼き止み、再び一斉に啼き出すまでの絶妙なタイミングと静寂感と………。
 巧いね!


〇  白くまの薄汚れているあの感じ貨車のひとつに雪は残りて

 北国から遣って来た無蓋車の中に消え残っている薄汚れた残雪のイメージを、「白くまの薄汚れているあの感じ」と、比喩しているのである。この作品もなかなか巧い!


〇  いまはまだ母がいるからゆうぐれに電話をすれば母の声はする

 そうです!
 その通りなんです!
 あなたが<ゆうぐれに電話をすれば母の声>がするのは、<いまはまだ母が(息災で)いるから>なんですよ!
 考えてみると、極めて当然なことに過ぎませんが、こうした事は、あなたに限らず、人間誰しも覚えておかなければならないことなのかも知れません。


〇  母はもういたわるひとになりたれば静かに譲る窓側の席

 そうです。
 あなたの仰る通りです。
 あなたのお母さんは<もういたわるひとに>なってしまったのですから、あなたはお母さんに<窓側の席>を譲ってやって下さい。と解釈してしまったら、誤訳なのかも知れません。
 彼女のお母さんは、相手に労わられる側の存在になってしまったのでは無くて、相手を労わる側の存在になったのでありましよう。


〇  覚め際に小さな赤いハンカチを振っていたのは誰だったろう

 誰だったろう?
 夢の覚め際に小さな赤いハンカチを振っていたのは、案外、あなたご自身だったのかも知れませんね?


〇  掬っても掬っても破れない紙で赤い魚を追い詰めていた

 <掬っても掬っても破れない紙>を貼ったタモアミで<赤い魚を追い詰めていた>って、つまんない!
 つまんない、で済むなら未だしも、これは一種の強迫観念から詠まれた一首でありましょう。
 こんな怖い夢ばっかり見ていたら、生きてる貝がりませんね!


〇  ああぼくが愛した白いブランケットに今年の秋の光が積もる

 「今年の秋の光が積もる」のに相応しい存在は「ぼくが愛した白いブランケット」に限定されるのである。


〇  ブランケットは紐で括られてあるからもうすぐ捨てるつもりなんだね

 いずれ捨てられる運命にある、「ぼくが愛した白いブランケット」を荘厳するかの如くに、「今年の秋の光」は積もるのでありましょう。


〇  海は手をかえしてすいと放ちたり白あたらしきかもめ一羽を

 寄せ返す白波の間を抜けて<かもめ一羽>が上空に飛翔したのか?


〇  ここへ私を置いていこうか絵のような明るい森の緑の椅子

 主題は<自己放擲願望>。
 「絵のような明るい森の緑の椅子」に自らを放擲して、別世界に旅立とうという儚い願望を抱く彼女!


〇  金の羽ひとりひとりに差し出して冬のある日に消えてしまいぬ

〇  ああここにもどってゆくのね銀色のひかりのうねり風のはじまり

〇  最期の息を吐いてそのまま閉じられぬ嘴はあり黒き燕の

〇  あの猫は見覚えがあるシマシマの滑り降りたら楽しそうな背中

〇  なきごえが管を伝って聞こえくる肋骨のなかに棲む野うさぎの

〇  ハムスターのケージ今年も捨てられず湿った場所で八年が過ぐ

〇  ちょんちょんとタオルの隅でその頭ふいてやりたし雀のあたま

〇  ゆうぐれが来ませんようにと願いたりこういこういと鯉を呼ぶ背に

〇  いくつもの水平線を越えて来し冬の鴎の長きまたたき

〇  雄ロバと雌馬の子は騾馬なれど「その逆は??、役立たず」とあり

〇  「特にカニを好むわけではない。」という但書つけしは蟹食い猿か

〇  艶やかに私の舟の下をゆく川は大きな冷たい虎だ

〇  はりねずみのようなゴーヤが夕暮れの門扉にごろりとぶらさげてあり

〇  水分が流れてゆかないようにするインコのように目蓋を閉めて

〇  ゆれるゆれる蝶がきてゆれる風がきてゆれるみんないなくなってゆれる

〇  蝙蝠は濃き夕暮れの色をして森の裏から来たるビショップ

〇  大き影いちまい樹より離れしのち羽を畳んで烏となりぬ

〇  小野さんが中指たてて風向きをはかるしぐさでじっとしている

〇  忽然と竹の林がなくなって風も消えたと小野さんが言う

〇  飴色の小野さんである小野さんは小野さんを抜けて風を見ている

〇  死をひとつボタンをひとつ投げ入れてみんな川になってゆくのだ    

〇  竹はどこボタンはどこと取り乱す小野さんのなかを過ぎる夕焼け 

〇  君はいま眠りの中を歩みゆきシャガ咲く水辺にたどりつくころ

〇  冷蔵庫の薄い唇笑いおり疲れているのはやはり私か

〇  影だけの国の住人どこからが自分の身体かわからず眠る

〇  喉仏に触れてこれは骨なのときけば神様だよと言いたり

〇  晩白柚に深くナイフを刺しいれて月の破片を月より剥がす

〇  こぼれくる光の網の目のようにゆるくつながる遠いあなたと

〇  おはじきの中に閉じ込められているかの日の湖の水草の揺れ

〇  耳というちいさな器に生きているあいだのやさしい記憶を仕舞う

〇  まばたきの間に欠けてゆくものはまばたきの間にまた満ちており

〇  夏のよる鍋の底からひとつぶの気泡ふわりと離れゆきたり

〇  あんなにも賑やかだった家なのに死んでゆく人閉じられる窓

〇  木片を焼べて記憶を灰にする火の粉よ還れ闇深き森へ

〇  涼しくて暗いひととき過ぎゆきてあなたは橋であったと思う

〇  橋ひとつくぐりし後の明るさよ流れゆくなりパドルをとめて

〇  橋脚が踏みしめている川底に深きわが手の触れることなし

〇  ゆうぐれの水に映ったあかね雲 既視感のない空に会いたい

〇  合歓の木がゆっさり揺れて雨を呼ぶ夏は静かに畳まれてゆく

〇  おいでおいでみんなおいでと水は呼びそのまま春を連れてゆきたり

〇  ひとも水もやさしいほうへゆるやかに蛇行してゆく半夏生あおし

〇  指に摘むシロツメクサの真ん中にきのうの夕日のあしあとがある

〇  おしまいの長さがわかる手花火が好きで見ていた光ゆくさき

〇  耐えきれぬ火の粉はとある瞬間に火より離れて夜空へ向かう

〇  カーテンをあけて眺める温かい雨がわたしの中に降るのを

〇  真剣に手を洗うひと長く長く水を使いて扉のむこう

〇  磨硝子の窓のむこうにいつも海ひかっていたり日暮れていたり

〇  夢のドアいくつもあけて目を覚ます最後のドアはまぶたであった

〇  落ちる、小さい火だね、声だけの線香花火の録画を見ていつ

〇  近づけばしんとなりたり賑やかに木の内側より聞こえいし声

〇  私はもう沼かもしれずつるつるの廊下をゆけば水の匂いたつ

〇  疑わず君の螺子だと思いいしに君がわたしの螺子だったのだ

〇  きっちりと母の手首に巻かれいる桃色のベルト伝書鳩のよう

〇  自転車の鍵をふたたび失くしたり持ってゆくのは亡き子だろうか

〇  扇屋を知りませんかと尋ねられ扇屋へいく道のない道を

〇  疾風の中帰り来て一番に東の星の明るさを言う 

〇  高校の部活の帰りにオカリナを疎水の縁に捨てて帰りき            

〇  オカリナを持つ手つきにて晩白柚唇へ運べば肉の匂いす            

〇  竹群の揺れぐあいにて風向きを確かめてからジャンパーはおる     

〇  閉め切ったままの窓ありその窓を匿うように伸びるジャスミン     〃

〇  血のなかを光の通るおどろきに雲雀は高く高く啼くのか

〇  鳩尾を背骨を汗が伝うとき我の真中に立つヒムロスギ

〇  もう会えぬだれかの耳の片方のように咲きたり昼咲月見草

〇  まわりじゅう闇なのですか光ですか身体がなくなったあとのいのちは

〇  ドクダミの白くちいさな花摘みて摘み続ければ手よりこぼれたり

〇  ももいろはまだねむいいろ暁の夢の続きに蓮は咲きたり

〇  父も母も輪郭だけのしゃぼん玉つぎの風にはなくなりそうな

〇  あさがおの蔓が乾いていく歌を誉めくれしひとこの世にあらず

〇  ゆうぐれの樹の影の色すこしずつあとずさりして君を離れる

〇  長く鬼をしている感じ振り向けばいつもみんなが静止している

〇  影だけの国の住人どこからが自分の身体かわからず眠る

〇  水容れをセブンがひっくり返す音きこえ来たりし遠雷の夜     

〇  落ちてくる死があり天に向かう死もありて水面に映る竹群       

「春日真木子第十三歌集『何の扉か』」に頭を垂れる

〇  さくら散る時間(とき)の光を牽きて散る 何の扉か開くやうなる

〇  何いろにわが眼に映る今年花 憲法九条あやふきときに

〇  花桃のひらきてわれは九〇歳 ああ零からの出発の春

〇  九〇歳は吉事にあらめこれよりはボーナスタイムよ朗ら澄む空

〇  鳩寿なるわれと並びて二歩三歩土踏む鳩の歩みは優し

〇  九十歳のわれの腕に湯気ぬくし女のみどりごの桜じめりよ

〇  中年が宙年ならば老年は牢年なりや 朗年とせむ

〇  老いたるは化けやすしとぞ 艸(くさかんむり)かぶれば花よ 私は生きる

〇  四代のをみなの揃ふ花筵 延びゆくならむわが待ち時間

〇  十重二十重花弁かさねて牡丹は牡丹色の空をいだけり

〇  九十歳に一つを加ふこれよりはほぐれよはぐれよ春の自由へ

〇  近き日はマイナンバーを記すにや老いの胸にも蝶の翅にも

〇  昼月の浮力をわれに引き寄せむ杖ふりあげて今日の背伸びは

〇  治療室のベッドは高くのぼれざり然らば背面跳びの術(すべ)にて

〇  法案の強行採択戦きて坐る丸椅子 あ、背凭れがない

〇  投稿歌の「蝉」は自由に鳴かすべし「蝉」より「蟬」へ直しつづけつ
     
〇  雨か霰もしくは雪といふ予報されば出掛けむ槍と死降らねば
     
〇  はさはさと春の羽搏き鳩寿なるわが新春の胸を打つなり
         
〇  降りたちて雀は歩く二歩三歩芋虫まるくころがしながら

〇  手文庫の奥に見いでし封筒に「要保存」とぞ父の朱書きの

〇  孔版の黄ばみし文書はGHQ校正検閲の通達なりき

〇  検閲を下怒りつつ畏れゐし父の身回り闇ただよへり

〇  校正をGHQへ搬びしよわれは下げ髪肩に揺らして

〇  この世紀まるまる生き継ぐ曾孫らに母国語ありや敢へなし母国

〇  日本語がローマ字化さる戦きを語るわれらにながし戦後は

〇  さなきだに用紙削減きびしかり なかんづく恐る検閲の眼を

〇  きはまりは編集後記含みある言葉かこれは深く汲むべし

〇  ザラ紙の誌面なでつつせつなけれ口授してゆかなこのせつなさを

〇  潔く辞めむと言ふ父潔わるく続けよと宣らす尾上柴舟

〇  警報の解くればゲートル巻きしまま謄写に向かふあな甲斐甲斐し

〇  風は伸び冬木をめぐり吹きゆけり考へぶかく木は曇りをり

〇  いたはられ座るほかなししほしほと炎昼こもるわれは「ゑ」の字に

〇  菊坂か、紅梅坂か杖捨ててわが夢の坂足かるかりき

〇  青草の韮を散らしし粥啜る八・一五われは民草

〇  風の渦黄葉の渦にまかれをり回収ちかき吾と洗濯機

〇  乾きつつ直ぐ立つ木賊の小集団わが在らぬとき手をつなぎゐむ

古雑誌を読む(短歌・2018年11月号)

      「雨に近づく」     田村元(りとむ・太郎と花子)作
  

〇  ポロシャツが少し毛羽立ちたるころに今年の長い夏も行きたり

 昨年のの夏は、暑くて長かったからね! 
 その暑くて長い昨年の夏を、君はポロシャツ一枚で過ごしたのでありましょうか!
 歌会の席などで、私がいつも感じていることでありますが、短歌を詠む男性の中には、(それが男らしい、と言えば、それまでのことですが、)服装や恰好に気を遣わずに、毎回、毎回、着たきり雀のポロシャツ姿で歌会にお出ましになられ、圧倒的多数の女性歌人たちからそれとなく敬遠されている者が多い、という事である。
 しかも、彼らの多くは、滅法界に歌が下手糞である、と来ているから、何処を見ても救いがないのである。
 斯く申す、私も男性であり、歌詠みでもありますから、もう少しましな歌を詠みなさい、だとか、もう少しおしゃれをしなさい、とまでは言わないまでも、他の出席者に迷惑を掛けないような服装をすることが、大丈夫な男としての常識というものではありませんか?
 それはともかくととして、本作は、「ポロシャツが少し毛羽立ちたる」と言って、時間の経過を表すなど、なかなかなる傑作である。


〇  バスに乗る直前にみなとりどりの傘たたみゆく髪を濡らして

 勤め帰りなど、日常生活の中で、よく目にする光景に取材した佳作である。
 「みなとりどりの傘」とは、よく言ったものである。
 昨今の雨傘は、ただ単に雨露を凌げばいい、というだけのものではなくなっていますからね!
 私は、一昨日、所用があって、東京は花の銀座に出掛けましたが、その序でに、銀座セブンの屋上にまで足を運んで、しばし下界の風景を見下ろしましたが、銀座通りを行く人行く人が、てんでとりどりに美しい色彩の雨傘を差しているんですね。
 銀座セブンの屋上に出掛けた時の私の気持ちとしては、懐に多少の余裕のあった私が、下界を行く貧しい人々を見下ろして、しばし優越感に浸ろうという卑劣な目論見を抱いていたのでありましたが、下界を行く人々が差している色彩豊かな雨傘を目にして、最初の目論見とは別に、かえって劣等感を味わってしまった次第でありました。なにしろ、私が持っている雨傘と言えば、数年前に、JR東京の忘れ物セールで買い求めた、真っ黒黒の折り畳み傘、一本きりですからね!
 それはそれとして、 「髪を濡らして」という五句目の七音は、余計な付け足しではありませんか?


〇  建設の途中のビルの鉄骨が十二階ほど地をはみ出せり

 「建設の途中」とあるが、途中も途中、基礎工事が終わって、十二階まで分の鉄骨を結い回しただけの段階なのである。
 「鉄骨が十二階ほど地をはみ出せり」とは、よくぞ言ったり!


〇  煙のやうな匂ひをあたりに漂はす小雨ののちのコンクリートが

 小雨上がりの工事現場には、土や鉄骨やコンクリートなどの匂い、ビル工事現場特有の、あの匂いが、煙状を成して立ち込めているのでありましょう。


〇  標高は二十メートルわが席の引き出しにあるパンの缶詰

 「標高は二十メートル」とは、作者の主観的な見方、言い方であり、今、彼の目前の机上に在るのは、用紙や事務用品を入れるただのスチール製の事務抽斗なのである。


〇  おでん屋の女将がおでんを仕込むころわれは資料のページをめくる

 御用達の「おでん屋の女将がおでんを仕込むころ」に、君は、手狭なる書斎にて、「資料のページをめくる」とのことでありますが!
 一口に「資料」と言いましても、いろいろでありまして、例えば、私の知人の風俗学者にとっては、『吉原細見』といった和綴じ本や、『女体図鑑』といったカラー写真入りの大型本さえも、立派な「資料」である、とか?


〇  地に足を着けて入りゆく路地裏に雨がけむりを掻き混ぜてゐる

 六首目に登場する「女将」が経営するお店は、おでん屋でありましたが、こちらの作品に登場する、田村元様御用達のお店は、路地裏の焼鳥屋でありましょうか!
 「雨がけむりを掻き混ぜてゐる」とは、よくぞ言ったり!


〇  居酒屋の引き戸をひけば二人組のやーさんが席を詰めてくれたり

 件の「二人組」は、「やーさん」とは違いまっせ!
 一見、やーさん風なただの酔客ではありませんか!


〇  高々とビールジョッキを掲げればいま湧き上がるゴールドラッシュ

 泡ばっかりの「ビールジョッキ」を手にして、「いま湧き上がるゴールドラッシュ」なんて言ってるから、君は歌会でペケばっかり貰うんと違いまっか?


〇  タクシーを待つ列のなか階段を一段降りて雨に近づく

 件の「居酒屋」は、トレーラーや大型ダンプなども往来する国道沿いに、しかも、敷地ぎりぎりに建てられた二階家なのであり、降雨の日には、お店の階段が、タクシーを待つ、酔客の待合室の役割を果たしているのでありましょう。
 とは、言ってみましたが、よくよく考えてみますると、件の「階段」とは、横浜ブルーラインや京浜急行などの駅の「階段」なのかも知れません?


〇  秋の灯を映して揺れる水たまりはじき飛ばして髙田交通(たかた)が通る

 本作の作者・田村元氏の現在の居住地は、横浜市の港北ニュータウン、とのことでありますから、作中の「高田交通(たかた)」とは、神奈川県横浜市港北区新吉田町4040−1に本社を置くタクシー会社、(有)高田交通を指しているものと、ほぼ確定的に推測される。
 同社は、タクシー会社としては比較的に小規模経営ながら、社長・加藤昌美氏の良識ある営業方針もあって、ドライバー諸氏がいずれも安全運転を心掛けており、乗客に接する態度が極めて親切丁寧なので、営業地域内の人々、特にタクシーの利用層から特段に愛され、「たかた」という愛称を奉られているのである。
 ところで、田村元氏に於かれましては、その親切丁寧な「たかた」タクシーの車輪から弾き飛ばされた泥水で以て、一張羅の背広を汚したのでありましょうか?
 恐らくは、そういう事態に見舞われたわけでは無くて、ただ単に、親しさの余りに「水たまりはじき飛ばして髙田交通(たかた)が通る」と詠んだだけのことでありましょうが、仮にそうでないとしたら、直ちに同社に怒鳴り込んで行くが宜しいかと存じます。
 田村元氏の如き、一見して判る真摯に怒鳴り込まれたとしたら、同社の事務所員は、間髪を入れず、件の紳士を、紳士服のアオキに連れて行って、特注のスーツを弁償するに違いありません!
 ところで、その紳士の田村元氏に、私から一言申し上げますが、雨上がりの宵の口と言えば、タクシードライバーにとって、最も忙しい時間帯であり、高田交通のドライバーに限らず、凡そ、タクシードライバーならば、誰しも、車輪が上げる泥水など気にせずに、大忙しで己がクルマを転がしている時間帯ではありませんか!
 そうした、世の常識も弁えずに、「秋の灯を映して揺れる水たまりはじき飛ばして髙田交通(たかた)が通る」とは、よくも詠んだり!
 この一首が齎す、高田交通の風評被害たるや甚大なり!お覚悟なされー!
 

〇  すぎなみの尾張さんから賜りし甲斐のぶだうを妻と分け合ふ

 察するに、作中の「すぎなみの尾張さん」とは、結社誌「りとむ」に所属する歌詠みでありましょう。
 <りとむ短歌会>での田村元氏の地位と、その慎ましやかな家計との格差には愕然たる思いに襲われます!
 (返歌)  小田原の提灯持ちから賜りし梅干一個でお茶漬け三杯  鳥羽散歩

「飯田彩乃第一歌集『リヴァーサイド』 」を再読する

〇  飛ぶ鳥の影を自転車で轢きしのち見上げる空の比類なきあを 

〇  胸底を昏く流れる川があり時をりゆびを浸してあそぶ

〇  草原にたつたひとつのバスタブを置いて遥かな雨を待ちたい

〇  埋み火を胸に宿して眠り込む百年はながいながい熱(ほとぼ)り

〇  うっすらと街を汚しゆく雨とわれを隔てる夜の硝子よ

〇  輝きをすこし遅れて連れてくる川の蛇行は微笑みに似る

〇  真向ひて頬とほほ寄せあふときになにか刺し違へてゐるやうな 

〇  明日死ぬ星のいのちを抱くやうにきみの頭蓋をかかへて眠る

〇  ここにゐないひとの上着の両腕が椅子の後ろに結ばれている

〇  遠つ国の名前もちたるヨーグルト食めば距離とはつめたさのこと

〇  ぱつぱつと大きな音をたてながらキィボードへ降る指の雨

〇  コピーした紙がひつそり息絶えるまでのぬくみを腕に抱きとる
    
〇  交差点にいつも置かれてゐた花がなくなるまでをこの街にゐて

〇  真夜中から抱き上げるこの両腕が子の輪郭を太らせてゆく 

〇  触れてゆくそばから指が泡になる君はどこにもゐない人だな

〇  振ることを覚えてからは何度でもあらゆる別れを告げる手のひら 

〇  写真いちまい端から燃えてゆくやうに萎れてしまふガーベラの赤
  
〇  花であるきみはすぐさま俯いてうつむくときの花のよこがほ

〇  向かふ先をゆくべき道と思ふこと戦野あらたな光を焚いて
        
〇  近づいてゆけばなんだか懐かしく潮の香りのするATM
        
〇  わたくしの体はわたしを遠ざかりひと夜ひと夜を子は太りゆく

〇  腋の下をすくつて空に抱きあげて滴るやうにあなたが笑ふ
    
〇   百円を伏せておくとき銀いろの水面に浮かんでくる桜花

〇   川沿いのひかりの中で手から手にペットボトルの光を渡す

〇  一輪を空き瓶に挿し入れるやうにひとすぢの陽がビル街に射す

〇  木香薔薇の配線は入り組みながらすべての花を灯してゐたり

〇  瘡蓋のような旧姓剥がれずに呼ばれればまた立ち上がりたり

〇  浴槽の栓をゆつくり引き抜けば水とはみづに溺れゆくもの

〇  頰を滑る刃の記憶をとどめつつ林檎みたいにけふは眠るよ

〇  いくつかのデスク集ふを島と呼び、けふ島々にゆきかひはなし

〇  デスクトップ背景を海辺に変へて波打ちぎはにファイルを置けり

〇  流線を描くレールの輝きを夜の列車が追ひかけてくる

〇  水面にくまなく映してゐる影を横切りながら川は流れて

〇  駐在所はちさき灯台 切れかけの蛍光灯を毎夜ともして

〇  いちもくさんに波打ち際まで駆け寄ってされどみづには入らぬひとよ

〇   あしの指の先よりみづに浸すときこえを聞きたり くるしき水の

〇  響きあふとほい海鳴り二人分のからだがシーツの波間に沈む

〇  水の面にみづの花咲きゆくことのけふも明日も雨なんだつて

〇  ふるゆきの白梅町をなほ抜けてくれなゐにほふ紅梅町へ

〇  雨音ももう届かない川底にいまも開いている傘がある

〇  過去世は竜の鱗であつたらう燻し銀色のスプーンに触る

〇  深い河の輝きから目を逸らしつつ眠ればそこにまた深い河
   
〇  左右の耳はことなる音を拾ひつつどこに立つても風の途中だ
   
〇  みづからをいつぽんの樹となすときにその洞 に来て眠る子がある

〇  みづからのはうへと向けて擦るマッチ 胸には容れることなきほのほ
    
〇  わたくしの体はわたしを遠ざかりひと夜ひと夜を子は太りゆく
   
〇  夏生まれのあなたと冬生まれのわれのあひだに秋の子はやつてくる 

〇  蒸し鶏のバジルパスタがわたくしの前に来るまでの遥かな旅路

〇  さむざむと宇宙をめぐりゆくときにこの星は海をうすく纏つて

〇  思ひだすたび思ひ出のなかにゐるあなたの髪が陽射しに燃える

〇  水平線つまびけば鳴るといふ海を見るため昏き階のぼる

〇  この街をやがてちひさく折りたたみ胸に仕舞つてこの街を出る

〇  WHERE THE RIVER FLOWS 流れ着いた岸辺にひとと暮らしはじめぬ

〇  みづうみに沈む瞳を覗き込みこれでいいかと確かめてゐる

〇  けふもまた明けゆく道に少年の脳のやうな紫陽花が咲く

〇  釣り針を口にふくみてたゆたひぬ基礎体温のうねりの中に

〇  ボールペンの試し書きのやうにさらさらと眠りつつ夜を転がれる子よ

〇  前をゆくあなたの舟を追ふやうに夜更けつめたきベッドに入る

〇  横たはるフローリングの冷たさよここより遠き異郷はなくて

〇  ゆつくりと小指で浚ふあやとりの川底にあるそのさみしさを

〇  感情をあなたに言へば感情はわたしのものになつてしまふよ

〇  夕立ちよ 美しいものことごとくこの世のそとに溢れてしまふ

〇  指と指のあひだにあはく死を透かしアポトーシスは夜明けの単語

〇  前髪のひとすぢ風に吹き上がりどんな過去にも戻りはしない

〇  さうかさうか私は獣だつたのだ月夜をこんなに愉しく駆けて

〇  もうずつと見てゐる長い夢のやう 午後には午後の挨拶をして

〇  朝の陽にひかる果実をもぐやうに部屋に吊した下着をはづす

〇  身じろぎもせず横たはるひとの辺に副葬品の眠りをねむる

〇  曇天をよこめにけさは犬のため無塩のパンを焼きゐる店主

〇  海鳥をあふげば白く反り返るのみどよ喉おまへのことよ

〇  舌に咲く花つぎつぎに吐き出だすひとを思へり味蕾の文字に

〇  足のうらを剝がし剥がしてゆくことを歩くと呼べり生きると呼べり

〇  少しづつ人は毀れてゆくものを辛夷めがけて降り注ぐ雨

〇  戦争は大きなうんどう会なのかそらに引かれたいく本もの白

〇  俯いたあなたの髪に飾りたい輝きわたる冬の銀河を

〇  感情をあなたに言へば感情はわたしのものになつてしまふよ

〇  照らされて輝るレシートにわたくしのけふの命の値段を知りぬ

〇  窓ガラスみな外されたビルに開く眼窩にも似た暗がりのこと

〇  言ひかけて閉ざす唇わたしとはわたしの心の棺に過ぎず

〇  伸ばせども伸ばせども空に届かないグラジオラスのあかるい力

〇  夜と呼ぶ水槽にいまわれらゐて唇はつけたりつけなかつたり

〇  長い眠りと眠りのあひだに見る夢のああなんてここはまばゆい光

〇  見る夢の端から端まで伸ばしてもオクターブには届かない指

〇  耳底でいつまでも鳴いてゐる蟬を追つてはいけない そこへ行つては

〇  知らぬ間に春は来てゐてその襟や袖から花を溢れさせてる 

〇  今すぐに駈けてゆきたい足二ほんぶら下げてゐるぴあのの椅子に 

〇  喫茶店の床にごろりと寝転んだ犬のかたちに呼吸はふくらむ

〇  薄明は平野を照らしあからひく肌に乾いてゆく化粧水

〇  evianのペットボトルの内がはに耀ひながら沈む山脈

〇  この星の破片をあなたは手に取つていま水切りの体勢に入る

〇  腕は錨 ベッドの縁に垂らしては眠りの岸をたゆたっている

〇  微笑めばもう夕暮れであるやうに頬に落ちゆく頬骨のかげ

〇  黄金の鍵と思いてゐたり床に落ちしパンの留め具を手に取るまでを

「馬場あき子第二十七歌集『あさげゆふげ』」を読む

〇  朝餉とは青いサラダを作ること青いサラダは亡きはは好みき  (あさげゆふげ)

〇  絶妙な薄さに切られあるハムを剥がしてしんめうに二皿とする

〇  みめよくて大力にて大食の僧の自在をめでし兼好

〇  茶柱が立つてゐますと言つたとてどうとでもなし山鳩が鳴く

〇  するべきかせざるべきかと思ふこと「一言芳談」はすなと訓へき

〇  ノンアルコールも晩酌といへば晩酌で田螺の味噌煮ですお肴は

〇  丸めて捨てる紙がしだいに多くなり夏すぎて書くちから失ふ

〇  しごと一つしたこともなくて夕焼けにけふは西瓜を食べ忘れたり

〇  読むことも物ぐさきなり岩泉の甘きヨーグルト今朝は掬ひて

〇  遠野とは時空を超えていまにありわれやいかなる老物ならん

〇  山葵田の背のはんの木さやさやと風のやうなる水の音をたつ  (山葵田)

〇  山葵田はさびしきところ雨に咲く花に寄りくるスジクロシロ蝶

〇  冬枯れのすすきを分けて猫来れどわれは口内炎にていたく不機嫌

〇  ふるさとは人捨てられてあるところ都市に十五夜のすすきを買へば

〇  犬小屋のあつた跡にも満月が上りて小さき時間がかへる

〇  免状ひらきて見れば執心によりてこの能ゆるすとありぬ

〇  芸のことうろんなれども執心によりて得たりし「定家」や「翁」

〇  土大根土深く白き身を秘めて雪に降らるる愛しきものを  (平和のやうな)

〇  芋頭手にのせ見ればひとところ青き力の芽ぐみいきほふ

〇  犬と毬青年と犬の日曜日平和のやうな日本のけしき

〇  よき思案何一つなしただ明るき空にきてゐる新しき年  (福袋)

〇  さまざまな記念日つくり福袋売り出せば人福に寄りゆく

〇  福のなき世かなさまざまな福袋そのふくらみを指で押す人

〇  白く涼しき歯科医の椅子に朝を座すしばし瞑想の心のやうな  (※)

〇  歯を磨くあとどれだけを嚙み砕く力残るや朝の歯みがく

〇  死に近き俊成が食べんといひし雪しろがねの椀にふはと盛られぬ  (俊成の雪)

〇  ああ何か香りよき酒店の前にきて温かな友情あるごと思ふ

〇  わが庭を通らねばゆけぬ野の闇に二、三の猫の長き尾は消ゆ

〇  わが庭を通りて深い闇にゆく猫の道あり昼はなき道

〇  夜陰しづかにわが庭通りゆく猫の幾重のやみを知らずくらせり

〇  一対の雛は照りつつ静かなる夜となりてわれの酔ふを見たまふ  (雛のころ)

〇  雛は母似こそなつかしき春ごとにわれは老い若き母はほほゑむ

〇  雛の日のグラスに注ぐ白き酒われにて絶えむ鄙のあはれも

〇  八十歳すぎて雛出す三月は母の遠忌のごとくさびしも

〇  眼を洗ふこののちくるもの怖けれどわれに残されし時間なほ見ん 

〇  ありふれたことと思へずちちははのはるかになきを思ふ雪の日

〇  大雪のなげきききつつ雪を待つ心きざせり母死にし雪

〇  もういいといふことはなし年経つついよよもういいといふことのなき 

〇  おそろしと思はば思へ橋姫の面をかけしわれは鬼なり 

〇  みどり色の吊鐘心に吊つてゐる女しづかに近づいてくる

〇  道成寺の石段はげしく音もなく白い足袋上る誰も止めえず

〇  老友よりショコラ届けば不気味なり頭脳しぼりてお返しもショコラ  (ショコラ)

〇  簡潔に保つをんなの友情のあかしのショコラ行つたり来たり

〇  老友はデイケアにゆき長閑なり庭にかなへびはみみずを噛めり

〇  川崎の.北部たちまち道細くなりて防人のふるさととなる

〇  若沖はああ天人の碧き眼を鳳に与へこの世蔑せり

〇  狂言師「花に目がある」と叫びたり空爆下の生者負傷者死者の瞠く眼

〇  今日なさず明日なさずされどひと生にはなさんと思ひゐることのある   (春逝く)    

〇  ただ眠い春です油断するうちに猫にも虫にもなれさうな午後

〇  行動の早きもののみが生き残るこれが戦争と知りて走りき  (空襲と牡丹)

〇  機銃掃射に膝を打たれし友あれどききつつ誰もそののち知らず 

〇  緊迫感どこにも見えぬ食卓にのつそり上つてきたるかまきり  (曇りときどき晴れ)

〇  安酒に酔ひて嫌ひなひとの歌つひにけなせりここより地獄

〇  若くまづしく直き愛もつ歌なればこのままでよし誰か気づけよ 

〇  割り勘で千五百円あつめてるそのわりにでかいことしやべつてゐたな

〇  新宿で切符を買つて飛び乗つたロマンスカーの蛇腹を歩く

〇  多摩川の鉄橋をゆくロマンスカー夕焼けに溺れただ帰るだけ

〇  化粧なき老女は化粧せしわれをしばし眺めてやをら眠れり

〇  きみといふ人称少し似合はなくシャツうしろまへに着るうちのひと

〇  川中島にほととぎす鳴くといふ歌の素朴なれども聞きて忘れず

〇  きづな切るやうな新しすぎる香をどくだみは放ち夏を告げたり  (どくだみ) 

〇  炎天に虹たつ霧をしぶかせて氷切りたる老爺はいづこ
 
〇  生きるとはつねに未済の岸ならんいいではないか でも花は咲く 

〇  河原には誰がゐやうと可笑しくなし年寄りがいつまで座つてゐても  (河原雀と屋根雀)

〇  体重は二〇グラムで生きてゐる雀ねむの枝(え)にゐて揺れやまず 

〇  人怖づる記憶雀にあるならん空気銃少年たりし岩田さん

〇  小さい小さいあの雀こそ親なれば太る小雀に口移しする

〇  現実にゆめが入り来るけはひする時ありてふとドア静かなり  (眼鏡と夢)

〇  現実さへ夢と思はるるゆめの世に海底にゐる空母そのほか

〇  朽ちてゆくかたちはみえて朽ちゆかぬ思いあることなまぐさきなり 

〇  こんなにも飢ゑてゐるのだといひたげに鵯が喰ひちらす蜜やさざん花  

〇  テレビ台の裏にゴキブリは棲みをりて深夜わが前を静かに歩む  (越冬するゴキブリ)

〇  二匹ほどその姿知るゴキブリの一匹は死ねりのがれしは雌

〇  夕顔の家に同居するゴキブリもゐたはずかそけく母屋をわたりて

〇  清少納言の衣の下あゆむ蚤はあれどゴキブリはかかれずいといと憎し

〇  ゴキブリが愛しあふなど思はねど相つれて入る狭間あるなり

〇  塩尻の塩羊羹で濃きワイン飲むときゴキブリは毒舐めてゐる

〇  わづかなる薄雲生れてしづかにも空を渡れり風もなき空  (寒気) 

〇  ひるでんしや座席に眠るをとめごのまつげの長しつくづくと見る

〇  凍れつつ帰れば茶の花咲きゐたり冬の心のそばにゐる花

〇  「百人一首」とることもなき新年の田作りで飲む辛口の酒

〇  塩引とよびし正月のからきもの絶えて白飯はしずかにぬくし

〇  家建つと地に落とされし鳩の巣の彼方より静かなるその声きこゆ  (鳩の声)

〇  不眠症と思ひゐしわれが風邪ひきて二日三日眠りつづくるをかし

〇  愛こめて頸締めあひし若き日の桜の色のかへる三月  (春のうづき) 

〇  おもしろき世のことなほもあるごとくさくら見にゆきふかく疲れぬ

〇  九品寺の墓所に桜は散りしきて死はなつかしきものになりゆく                 
       
〇  牡丹の蕾ふくらむと呼べどたちて見ず知るのみにして少したのしむ

〇  ぼんやりとしているからだは気持ちよくたっぷりとした時間の海だ

〇  もうわずかな思ひ出だけでいいのかも風に流れる梅の花びら

〇  鹿の湯に入れば一キロ先の湯にカタパラも入りゐてともに眼つむる (鹿の湯)

〇  歌よみは歌を捨てれば知らぬ人おそろしけれど箴言ならん  (夏茶碗)

〇  よはひとは祝はれにつつ死に到るものかな今年の牡丹は三つ

〇  四十年使ひなれたる塗椀に汁盛る朝の夏至の葱の香  (夏至の葱の香)

〇  「月よりほかに友もなし」とは恰好よき言葉かなワキ僧が今日は海辺で

〇  秋風の桜田門外柳の木空蟬二つとめてそよげる

〇  桜田門外に佇み見れば人語なき首都さうさうと車流るる

〇  たつぷりと樹液に酔ひて眠る蟬しづかにしづかに蟷螂あゆむ

〇  かまきりは蟬噛み砕く音させて石榴木にゐたりしんかんと昼

〇  夜のシンクに長々とゐる大むかでほかなきか無し叩くほかなし            

〇  そして誰もゐなくなつたと洒落ながらむかで殺しし犯人はわれ

〇  鶺鴒はすずめの米をすこし食べ3あなやさびしく鳴いて去りゆく  (食べる)

〇  梅雨明けはさうめんの季節うす切りの胡瓜とトマト浮かせてをれば

〇  さうめんはなだれのやうにすするものさびしいかなやしんかんとして

〇  大根をよく干して漬ける禅寺のたくあんは決して黄いろくはない

〇  たくあんは何の料理にでも付くが鰻にはかならず奈良漬がつく

〇  らつきようは香の物にはあらねども天丼についてくるときうれし

〇  むかしむかし瑞泉寺で食べたたくあんこそ本物ならんほそくしなびて

〇  透きとほるほどの薄さで食べたしと夫のいふなる東京たくあん 

〇  もうゐなくなりし小ゲラの縞の色や木を啄く音追悼す夏よ

〇  わがもてる言葉ことごとく死んでゐた秋の目覚めの白い朝顔  (夏の事情)

〇  やればできると思ひつつゐて何もせず朝顔の蕾けのさはなくなる

〇  ことごとく花終へて今朝あさがほは細き蔓長く長く伸ばせり

〇  新百合ヶ丘のオーパの地下に針買ひにゆくとき小さく啼いてゐた蟬

〇  柿生坂にがてとなりぬ坂と藤とゆつくり対話させつつくだる

〇  語り部の情熱をもてきみ言ひし呪はれし絹の道なる近代の闇  (辺見じゆんさん) 

〇  ニューブリテン島の螢の木のこと語るとき涙ためゐしこと忘れえず

〇  やはらかく小さき手なりき母のなき子なりしことを少し語りて

〇  青楓繁れる庭は小雨して名人戦の部屋灯されぬ  (椿山抄) 

〇  もみぢまだ早ければ滝の音きけり挑戦者入りくるまでの静寂

〇  長考し長考し見ゆるものありや一石を投ずるといふことの大きさ 

〇  ふたりゐてその一人ふと死にたれば検死の現場となるわが部屋は  (別れ) 

〇  腰ぬけるほどに重たき死を抱へ引きずりしこのわが手うたがふ    
 
〇  夫のきみ死にてゐし風呂に今宵入る六十年を越えて夫婦たりにし

〇  深き皺ひとつ増えたり夫の死後三日の朝の鏡に見たり 

〇  亡き人はまこと無きなり新しき年は来るともまこと亡きなり

〇  アマリリス咲きて.針魚の旬となる逝きて人なき椅子は残りて  .(残され椅子)

〇  墓などに入れなくてよいといふであらう本質はさびしがりやだつたあなた

〇  亡きひとよしんしんとろりゆつくりと眠つてください雪の夜です

〇  何待つとなけれ待つとは思ひなれ待ちえてけさはまひまひに会ふ

〇  大ぶりの椀にたつぷり雑煮して謹賀新年ひとり正月   (ひとり正月)  

〇  梅咲けばツルゲーネフの『散文詩』きみの声きくごとく取り出す  (衛星のごとく)     

〇  衛星のごとく互にありたるをきみ流星となりて飛びゆく

〇  死なうと思つた恋もなけれど死んだふりの恋さらになし凡なりしかな

〇  郵便受けにいろいろの鳥は来て止まりおしるしのやうに糞を残せリ

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