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詩歌句誌面

読解なくして論評あらず。

今週の「朝日歌壇」より(2021/1/24掲載)

     永田和宏選

〇  六歳は柩の中の母に向きこらえつつ言う「死んでないよね」  (亀岡市)俣野右内

 首席。
 「死の意味がようやく朧げにわかりかけてきた六歳の孫。母に向かって『死んでないよね』と、必死の問いかけが悲しい」とは、選者・永田和宏氏の涙ながらの寸評である。
 「こらえつつ言う『死んでないよね』」という、下二句の十四音が泣かせる一首である。
     朧げに死ぬとふ事の意味を知り「かあさん死ぬな!」と縋り付きたり!


〇  監督に抱きつく勝者と監督に抱かれる敗者に分かつ勝負は  (観音寺市)篠原俊則

 次席。
 「ゲーム終了時の悲喜交々のシーン。<抱きつく勝者>と<抱かれる敗者>は成程見事な把握」とは、選者・永田氏の寸評。
 過日、無観客で行われた、卓球の日本選手権の女子シングルスの決勝が石川佳純選手の勝利で終わった折に「監督に抱きつく勝者と監督に抱かれる敗者」という涙ながらの名場面が展開されましたが、毎年の暮れに京都で行われる、高校駅伝の全国大会に於いては、しばしば斯かる場面が展開されるのである。
 こうした場面は、選手や監督が男女の区別に関わらず展開されていると思われるのであるが、私・鳥羽散歩は、世間並みの常識を持ち合わせている所為なのか、特に女子選手がゴールした時に男性監督の胸に抱き付いて行ったり、抱かれたりする場面だけが目に付いて致し方がありません。
 それは兎も角として、「監督に抱かれる」と言えば、数年前にマスコミの話題となった出来事でありますが、ある大学の女子柔道選手だったか、女子レスリング選手だったかは忘れてしまいましたが、件の大学に於いては、女子選手が男性の監督に抱かれる事を代償にして全国大会出場の夢を果たしたという事でありました。
 又、大相撲のある部屋では、「部屋持ち親方の女将さんが幕下以下の力士を抱く、というスペッシャルサービス付きで、彼らを励まし、彼らの逃亡を未然に防いで居た」という話もありましたが、あれらの話の結末は如何相成ったのでありましょうか?
     自らを満たす序でに丁髷の結へぬ弟子たちをも満たすサービス!


〇  湯豆腐の湯気の向かふに妻がゐた団欒といふ貴重な時間  (高松市)島田章平

 三席。
 今日、一月二十七日の午後、たまたま手にして走り読みして居た随筆集『遠い日のこと』(角川書店・平成9年刊)の中で、著者の飯田龍太氏が「俳句では湯豆腐の湯気の向こう側に浮かぶのは美人の顔なんですよ」といった主旨の事を語っていたので、早速、インターネットで検索してみたところ、それらしき数十句を検索し得たので以下に列挙させて頂きます。
     湯豆腐の湯気の向かうの倅かな  小林和世
     湯豆腐や佳き刻分くる友のゐて  赤池英津子
     湯豆腐や講釈ながき人とゐし  小梅順
     湯豆腐に老いの艶ある聞き巧者  酒井秀郎
     湯豆腐を吹く母と子と顔を寄せ  松原智津子
     んと母の匙の湯豆腐押しやる児  ことり
     湯豆腐をとらへて語りはじめけり  塙告冬
     湯豆腐や友あのころの顔になる  伊吹之博
     湯豆腐の湯気の家族のほほ赤し  鈴木陽子
     湯豆腐の浮けば召せよの京言葉  谷野黄沙
     湯豆腐や掴みどころのなき人と  川村清子
     湯豆腐を言葉少なき夫婦食ふ  溝渕弘志
     湯豆腐や無口な夫と摂る夕餉  永井惠子
     湯豆腐に思ひ出手繰るふたり住  大松一枝
     湯豆腐や和み始めし郷ことば  西村美枝
     湯豆腐に常より熱く語りけり  瀬戸峰子
     湯豆腐のゆれて賢兄愚弟老ゆ  西尾照子
     湯豆腐や主客どちらも耳遠き  松田泰子
     湯豆腐や夫との暮しこぢんまり  森清信子
     湯豆腐や四角四面の夫なれど  田島蔦子
     湯豆腐や男の歎ききくことも  鈴木真砂女
     大寒の六十妻よ湯豆腐よし  橋本夢道
     湯豆腐や一件落着せし夫婦  山本涼
     湯豆腐や強気弱気の人と居り  石山惠子
     湯豆腐や志もつ者同士  山本喜朗
     湯豆腐やともあれ命得し父と  小菅暢子
     湯豆腐の座をゆづりあふ師弟かな  長田等
     湯豆腐や兄弟だけの一忌日  渡辺いえ子
     湯豆腐や女子大を出てただの婆  木田千女
 何事に付けても物事というものは注文通りに事が運ばないものと思われて、これらの俳句の中では、今は亡き飯田龍太の言の如き場面、則ち、「湯豆腐の湯気の向こう側に美人の顔が浮かんでいる」という場面が必ずしも展開されているとは限らず、その顔たるや、「女子大を出たただの婆」の顔だったり、「強気弱気の人」の顔だったり、「一件落着せし夫婦」の顔だったり、「四角四面の夫」の顔だったり、「主客どちらも耳遠き」人の顔だったり、性別年齢共に不明の「掴みどころのなき人」の顔だったり、「老いの艶ある聞き巧者」の顔だったりして、せっかくの飯田龍太氏の言に逆らい、私・鳥羽散歩の期待をも裏切るのである。
 しかしながら、よくよく検索してみると、湯豆腐を季題とした俳句の中には、「湯豆腐や一人に大き鍋なりし(谷寿枝)・湯豆腐のせめて隣をよんで見る(尾崎紅葉) ・湯豆腐を好みし母も夫もなく(中道愛子)・湯豆腐や父の口ぐせ真似てみて(赤木真理)・湯豆腐やゆらりとうかぶ父母の顔(池内勝信)」といった、湯豆腐の湯気に当てられて独り暮らしの侘しさを詠んだ俳句だって数多く見受けられますから、尾崎紅葉氏を始めとした前掲数十句の作者諸氏は、兎にも角にも、湯豆腐鍋を共にする相手が居るだけに、「湯豆腐や幸せに居て気付かざる(関森勝夫)」といった類のそれなりに恵まれた境遇の方々だったのかも知れません。
 閑話休題。

 話題を俳句から短歌へと急転回させていただきますと、掲出の島田章平さん作の主旨に依りますと、「二人暮らしの家庭の<団欒>というものは、<湯豆腐の湯気の向かふに妻>が居て、こちら側に夫の吾が居てこそ辛うじて保たれる」ものらしい!
 それなのに、あの日から十年も経たない今日の夕餉の「湯豆腐の湯気の向かふ」には、当然居るべき筈の「妻」が不在なのである!
 「ある時はありのすさびに憎かりきなくてぞ人の恋しかりける」とは、『源氏物語』桐壺の巻の所収歌であり、宮中の女官たちが、今は亡き桐壷の更衣を偲ぶ場面であるが、宮中の女官ならぬ、高松市有数の愛妻家であったと推測される島田章平さんであってみれば、「ある時はありのすさび」の憎からで思い、「なくて」の後の今日の夕餉の欠落感には、如何とも為し難い思いに囚われ、嘆かれて居られるのでありましょう。
 「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」とは、久保田万太郎の句集『流寓抄以後』所収の名句であり、冬の季語・湯豆腐に事寄せて、自らのそれを含めた人間の命の儚さや、生きる事の虚しさを俳諧的かつ主情的に述べた名句である。
 「今は亡き妻に対する思慕の情」を主題にした名歌は、私の知る限りに於いても十指に余る!
 しかしながら、寡聞にして私・鳥羽散歩は、夕餉のおかずの「湯豆腐の湯気の向かふに」という、日常茶飯事的、且つ俳諧的な歌い出しを以て愛妻の不在を抒情的に詠い上げ、愛妻の死を今更のように嘆き慕う名歌に出合わせた事はありません!
 香川県高松市にお住いの歌詠み・島田章平さんの女々しさと、本作の俳諧味と抒情性とに絶大なる拍手を!
     ある暇のありのすさびの歌評にて言葉足らずをご容赦なされ!
 とは申せ、私は、年末から年明けに掛けてのここ数週間は、相棒のノートパソコンの不調に悩まされ、一時は、「詩歌句誌面」を廃絶しようと迄も思い詰めていたので、この度、島田章平さんの斯かる傑作に出会うを得て、大きな喜びに浸って居る次第なのであります。
     ありし日のありのすさびの睦言を思ひ出さする名歌なるらむ!
 島田章平さん、何時何時までも女々しい抒情歌を詠み続けて居て下さい!


〇  円山から市役所までの若き日のデモのコースを旅人として  (名古屋市)山西喜子

 六席。
 「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」なる与謝野晶子の名歌を脳裏に置いての作品ではあるが、「若き日のデモのコースを」に、作者の世相批判の思いが込められているのでありましょうか?
 そう言えば、昨今の若者たちは、春闘ともデモ行進とも無縁の生活に追い遣られているようですね!
     県庁を取り巻きて沸くデモの声「賃金上げろ!暮らしを守れ!」


〇  ひき揚げし舟の形に雪積みて裏日本とふ廃語懐しむ  (佐渡市)小林俊之

 八席。
 「ひき揚げし舟の形に雪を積む」事は、佐渡地方の正月の習俗なのでありましょうか?
 そう!そう!
 新潟県佐渡市にお住いの小林俊之さんと同様に、私・鳥羽散歩は、俗に謂うところの「裏日本」に生まれ合わせた為に、他人に明かすことが出来ないほどの辛苦を味わいました!
 小林俊之さんは、「裏日本といふ廃語懐しむ」などと、裏日本居住者らしからぬ能天気な事を仰いますが、「裏日本」という差別語は、確かに辞書や新聞・雑誌などの誌面上からは消え失せましたが、その実質は、未だに、否、永久に消え失せません!
 例えば、菅総理大臣閣下の不人気振りに付いて考察してみますと、彼には、一国を統べる事が出来るような政治家としての才質に欠けているような側面が見受けられますが、それ以上に注目するべきは、彼の生まれ在所が、東北の秋田県湯沢市秋ノ宮地区(旧・秋田県雄勝郡秋ノ宮村)という、我が国有数の僻陬の地であったという点、更には、彼の国会演説や答弁、記者会見での答弁が「ズーズー弁」として蔑まれている秋田訛りの言葉であるという点でありましょう。
 彼・菅義偉氏は、自らの生まれ在所が「人口よりも熊の数が多い」とされている僻陬の地であるが故に、彼の口から出る言葉が「ズーズー弁」であるが故に、卑しめられ蔑まれなければならないのであり、その分だけ余計に強情を張って見せたりしなければならないのでありましょう。
     法政の夜間部卒を売り物に赤い絨毯踏み締め威張る!
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卑しくも<詩歌ブログ>を名乗る以上は、イラストやカラー写真で以て読者に取り入ろうとしてはなりません。ましてや、田舎町の安手のレストランで食べた料理のカラー写真で以て読者を幻惑させようとするのは論外です!当ブログは、カラー写真やイラストの類の夾雑物は一切無しの<詩歌ブログ>です。

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