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寺山修司の「地獄」   決定版(少なからず字句の訂正箇所あり)

〇   兎追ふこともなかりき故里の銭湯地獄の壁の繪の山(田園に死す/少年時代)

 街に銭湯が少なくなり、入浴設備の無い安アパート住まいの貧乏学生やサラリーマンなどが困っていて、社会問題化されている、とか?
 斯く申す私・鳥羽散歩などは、大学なる後期高等教育を施す施設に入獄するための受験料を肇として学費一切、生活資金の大半をアルバイトで稼いで賄っていたから、謂わば貧乏学生中の貧乏学生であった。
 だが、幸いなことに、大学時代の四年間は、郷里出身の一篤志家の提供に拠る東京都大田区山王の土地に郷里の市町村が建設した学生寮で過ごしていたから「長期間入浴していないが故に身体が臭くなり交通機関や学内で居場所が無くて困った!」などという経験をしていないが、今になって振り返ってみると、そんな経験しておくことも必要であったのかも知れません。
 数多なる学友の中には、そんな悪業を背負わせられながらも机にしがみ付いて勉学に励んでいるが故に「村八部」状態に置かれている男性が少なからずいたに違いない。
 その頃の東京都内の街々は「東京オリンピック」という事で大賑わいを見せていたように私には思われましたが、それは上辺だけの事で、サラリーマンも学生も、明日の職や食を求めて歩き回り喘いでいたのが昭和三十年代の祖国・日本であったに違いない。。
 そんな祖国日本の国民の一人であった寺山修司は、私同様に我が国の辺地・東北地方に生まれ育ったのであるから、私同様の「田舎っぺ」であったのかも知れません。
 都会の銭湯の背面に描かれるペンキ絵の定番は<日本一の富士の山>であるが、寺山の郷里の青森市や三沢町の銭湯の壁には、あの斎藤茂吉好みの「地獄極楽図」が描かれていたのであろうか?
 否、そんなことは断じてあるまい!
 仮に、寺山が生まれ育った青森県の銭湯のペンキ絵の図柄が「地獄極楽図」であったとしたならば、私が生まれ育った秋田県の銭湯のペンキ絵の図柄だって「地獄極楽図」であったに違いないが、私は、私の郷里の秋田県内の銭湯で、そんな珍しい図柄のペンキ絵に、ただの一度として出会ったことがないから、これは<嘘つき修司>のついた<嘘偽りごと>に違いない!
 察するに、「○〇地獄物」の掉尾とも言えるこの作品は、彼の歌人としての先人とも云うべき斎藤茂吉がが好んで詠んだ「くれなゐの炎燃えたつ火車に亡者を載せて白き鬼引く・飯の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口のおどろくところ」と云った短歌に登場する、いわゆる「茂吉好みの地獄極楽図」などから刺激を受けての発想されたものかと思われる!
 一首の意は「故郷の銭湯の壁に描かれいたペンキ絵の図柄は地獄図であったが、私は、その銭湯地獄の山で、ついぞ兎狩りをしたこともないままに大人になってしまった!」といったところであり、先人・茂吉の歌にある<地獄極楽図>から<故郷の銭湯の壁のペンキ絵の地獄>が思い起こされ、事の序でにその「地獄」に「山」を付け、「山があるならば兎がいるはずだ。兎がいたらガキンコたちが兎狩りをするはずだ。だが、怠け者の私は、兎狩りと云う<大人になるための必須条件たる割礼>を為されないままに大人になり、この東京の芝居小屋の主みたいな存在になってしまった!」と、自らの死に際をひしひしと感じているのが、薄幸の才人・寺山修司なのである。


〇   間引かれしゆゑに一生缺席する學校地獄の弟の椅子(同上/少年時代)

 「間引き」などという忌まわしい言葉に、昨今の若者たちの多くは接したことがないはずだ!
 貧乏百姓の小倅だった私・鳥羽散歩は、間引かれこそしなかったものの、「散歩よ!お前はあの山の大杉の根元に在る穴の中に捨てられていたのを、この家の主が拾って来た育てたんだぞ!だから、お前を生んだ母親は、あの山の奥に棲む<やまんば>なんだぞ!」などと言われて悔しい思いをしたことがあります。
 そうした悔しい思いをしながら成長した者は、何も私一人ではなく、同世代の子供の中でそんな悔しい思いをしなかったのは、「旨い酒・遼関」本舗の社長の愚息・糸井喜朗君や、「銘酒・福娘」の醸造元の「廼村酒屋」の長男の廼村優太郎君ぐらいのものだったに違いない!
 その廼村優太郎君と小学校六年間を通じて同級生だった私にとっての学校こそは、まさしくも「学校地獄」そのものであった。
 私は、貧乏人の小倅のくせして記憶力が抜群であり、勉強がよく出来、しかも、駆けっこが人一倍速いかったから、<テストでいつも満点を取っている>からと云って虐められ、<運動会の百メートル走で勝った>からと虐められ、挙句の果てには、学級担任の和賀林内我先生からも、「算数のテストでカンニングの疑いあり!」との罪状で、時折は虐められたものである。
 然しながら、この一首の主題となっている「学校地獄」は、彼・寺山修司の「そうであって欲しい」との妄想から成り立ったものであろう?
 何故ならば、「学校地獄」こそは、後年、名を成す事が約束されている子供にとって必要なものの一つだからである。
 斎藤茂吉の短歌の「地獄極楽」から始まった連想ゲームが「地獄極楽→銭湯地獄→學校地獄→呉服屋地獄→本屋地獄→おでん屋地獄→畳屋地獄→障子地獄→(中略)→花園地獄→」と連なり、「アベシンゾウ地獄→スガヨシヒデ地獄→キシダフミオ地獄→日本沈没地獄」と発展するはずたったのであるが、その途上で作者ご自身が「地獄」に陥落してしまったのでありましょうか?


〇   町の遠さを帯の長さではかるなり呉服屋地獄より嫁ぎきて(/同上) 

 寺山修司得意の「〇〇地獄」も、さすがに「呉服屋地獄より嫁ぎきて=町の遠さを帯の長さではかるなり」とあっては、真につまらなし!
 駄作である! 
 

〇   夏蝶の屍ひそかにかくし來し本屋地獄の中の一冊(同上/同上)

 察するに、「本屋地獄の中の一冊」に「夏蝶の屍ひそかにかくし來し」という一首の発想源は、梶井基次郎作『檸檬』にありましょう。
  「丸善の棚」に檸檬爆弾」が在るんだから、「本屋地獄の中の一冊」に「夏蝶の屍爆弾」が在ったとしても何ら不思議ではありませんね!詩歌句誌面の愛読者の皆様方よ!
 拠って、以下の余白に、梶井基次郎作『檸檬』の末尾数行を、「青空文庫」より転載させて頂きます。

 「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃ほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩どっている京極を下って行った。

 
〇   ひとに賣る自傳を持たぬ男らにおでん屋地獄の鬼火が燃ゆる(同上/捨子海峡)

 私・鳥羽散歩も「ひとに賣る自傳」一章ぐらいはものしたいものであるが、「未だし……」というところなのかな?


〇   家傳あしあとまとめて剥ぎて持ち帰る畳屋地獄より來し男(同上/発狂詩集)

 <事業に失敗する>などの理由で、借金地獄に陥った家には、「銀行」や「街金」などの債権者が殺到して何もかも持ち去る!
 例えば、「中風を患って寝ている老婆の寝床の下の畳まで剥がして持ち去る!」という話を、私・鳥羽散歩は子供の頃に本家の爺様から聞いていて、「例え、オ〇〇コ地獄に陥ったとしても、借金地獄にだけは陥りたくないものだ!」などと思ったりしたことがありましたが、才人・寺山修司も、そのような思いに捉われて悩んだことがあったのでしょうか?


〇   鶏頭の首なしの莖流したる川こそ渡れわが地獄變(新・病草子) 103首中の7首

 作中には「鶏頭の首なしの莖」とありますが、「鶏頭」ならぬ「鶏」が、鉈でもて頭部を断たれ、「首なし」状態で庭の辺りを暴れ回っている光景を、私は目前にしたことがありますが、これこそは「わが地獄變」なのかも知れません!
 なお、芥川龍之介作に『地獄變』なる傑作在り。ご参考にされたし!


〇   北海の障子地獄の荒しぶき針をくわえてふりむく母は(月蝕書簡/母の古代) 187首中の1首

 この一首に描かれた光景と類似した光景を描いた「浮世絵(地獄絵)」があったように、私は記憶しています。
 また、拙作に「背を病める徒弟貼り居し襖絵の責め凄かりき穂村経師舗」という一首が在りますから、ご参考までにご一覧下さい。       
 なお、拙作中の「穂村経師舗」なる名称は、私の郷里にかつて実在した<経師屋>の仮称であります。


 寺山短歌の魅力の一つは、恐山の在る青森県で生れ育った寺山修司が好みそうな「〇〇地獄」を含んだ作品とされているが、意外なことに、「○○地獄」を含んだ短歌は、彼の詠んだ凡そ千首の中の七首がそれであり、しかも、その中の六首が、彼の第三歌集である『田園に死す』の所収歌である。
 逝き先は極楽か地獄かは確かとは存じ上げませんが、1983年〈昭和58年〉5月4日に僅か四十七歳で敗血症であの世に旅立った彼が、第三歌集『田園に死す』を上梓したのは1965年(昭和40年)であるから、「〇〇地獄」を含んだ短歌は、決して<若書き>とは言えず、むしろ彼が短歌と訣別する間際に詠んだ作品でありましょう。
 また、この「〇〇地獄」ものの全てが傑作とは言えず、むしろ、連想の赴くままに無理矢理に仕立て上げた作品、即ち、寺山作らしからぬ駄作もありましょう!
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